東宝映画スタアパレード

第18回『東宝映画スタア☆パレード』植木 等② 誰もが罹った〝森繁病〟を克服、〝無責任男〟として完全復活を果たした映画とは

今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。

 

『ニッポン無責任野郎』(62)から『日本一のショック男』(71)まで、10年に亘って年末年始のスクリーンを賑わした植木等。まさに「正月映画の顔」と称すべき存在である。
 二度目の登場となる今回は、無責任男を演じるのに疑問を抱いた植木が罹った、いわゆる〝森繁病〟の話から始めたい。

 「スーダラ節」がヒットし、初主演映画『ニッポン無責任時代』(62)が好評を得たあと、佐藤忠男との対談で植木が語った言葉はこうであった。
 「こりゃえらいことになったという感じがするんですよ。おまえはこれをやらなきゃならないんだ、と大きな声で言われちゃったような気持ちですね。大きな荷物を背負わされたような……」
 「スーダラ節」についても、「ヒットしてもちっとも嬉しくないわけですよ」と嫌悪感を隠さない植木。父の徹誠氏に意見され、嫌々歌っていた話もよく知られるところだ。

▲「東宝映画」62年8月号『ニッポン無責任時代』紹介グラビア(寺島映画資料文庫提供)


 続いて、フランキー堺や森繁久彌らが徐々に人情喜劇をやるようになったことについて問われた植木は、自分が〝素人〟であると自覚していたのか、「彼らは、それをやってもできるんだからいいじゃないですか」と羨むとともに、「ヒューマニティの溢れたペーソス、大人の評論家の対象となるものと取り組むときは、ただの〝無責任〟では通らないですからね」と、自らに貼られたレッテルを厭う発言も残している。

 
 以上は『無責任時代』公開直後の『映画芸術』(62年10月号)誌上での発言だが、ここからは植木の〝無責任=C調男〟への反発と共に、本格的な芝居への憧れが強く感じられる。
 小林信彦に対し、「渥美ちゃん(渥美清)のは芸術ですよ。僕の映画はマンガですね」(『日本の喜劇人』晶文社)と自虐的な言葉を吐いたことのある植木は、この対談でも「死ぬまでにいっぺんでいい。やった! おれはもうこれで死んでもいい、と思うようなのを一発やりたいです」と、役者としての上昇志向を隠していない。

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