今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。

ともに1951年、東宝のスクリーンで女優デビューした岡田茉莉子と有馬稲子。二人とも、自分が演じる役柄や作品についてはっきり主張をしたことで知られるが、結局は東宝に居場所を見つけられなかった〝悲運〟のヒロインということもできる。今回は二人の東宝時代の〝波乱〟の軌跡を追ってみたい。
伝説の二枚目俳優・岡田時彦を父に持ち、1933年1月に生まれた岡田茉莉子。子供時代はその存在を知らずに育つが、東宝の文芸部にいた叔父・山本紫朗の勧めで東宝演技研究所の聴講生となる。二十日も経たないうちに川端康成原作・成瀬巳喜男監督の『舞姫』(51)に起用されるという異例の厚遇を受けたのは、父の威光もあったろうが、なにより成瀬がその将来性を見出したからに他ならない。
岡田茉莉子の名付け親は、父の名前も付けた谷崎潤一郎。しかし、こうした特別扱いに研究所の仲間が反発、スタート時から「高慢・生意気な女優」というレッテルを貼られてしまう。岡田にとって、父の名声がむしろ重荷となったことは確かだ。
その年の秋には東宝専属となった岡田。同じく第三期ニューフェイスの小泉博と恋人役を演じた『青春会議』(52)で奔放な「アプレゲール」とみなされ、丸山誠治の『思春期』ではスカートをまくり上げた姿がポスターに採用され、これが盗まれるほどの騒ぎに発展。さらに、父の作品のリメイク『足にさわった女』(市川崑監督)出演に不満を覚えたり、豊田四郎の『春の囁き』で撮影技師からいわれなき非難を受けたりと、岡田の苛立ちは募る一方となる。
再度の成瀬作『夫婦』(53)や原節子と顔合わせした『白魚』でもアプレ女優のイメージを消すことができず、熊谷久虎や山本嘉次郎から教えられた演技術(スターは演技をしなくてよい)にも悩まされた岡田。そんな中でも『夜の終わり』や『坊っちゃん』では池部良、『吹けよ春風』では三船敏郎と共演。22本の作品に出て女優としての基盤を築きつつあった彼女に、ようやく完全なる主演作がもたらされたのが『芸者小夏』(54)だった。











