戦前の〝純粋無垢な娘役〟時代、戦中の〝戦う者にとっての女神〟時代、戦後すぐの〝過去に決別して新しい時代に立ち向かう闘士(併せて没落貴族の令嬢)〟時代、そして〝くたびれた人妻や屈折した女性を演じた熟年〟時代を通じて原は、一貫してスターとしての立ち位置で映画に出演し続けた。
すなわち原は、女の生き方というものを様々な時代を通じて演じることが許された、実に〈贅沢な女優〉であり、これこそが彼女の女優としてのステータスだったのだ。
山中貞雄の『河内山宗俊』(36)や、伊丹万作とアーノルド・ファンクの共作となった『新しき土』(37)あたりで確立されたイメージもあって、2015年に九十五歳で没するまで〝永遠の聖処女〟と呼ばれ、神秘的存在であり続けた原。もちろんこれは、四十二歳の女ざかりに銀幕から忽然と姿を消し、その後も生涯独身を貫いたことが大きい。
しかし、噂された男性は、かの小津安二郎を始め何人か存在した。筆者が知る限りでも、東宝の助監督兼脚本家・清島長利、『上海陸戦隊』の脚本家・沢村勉、果敢にも原にプロポーズした日活の助監督H、『安城家の舞踏会』で仕事を共にした吉村公三郎監督、体調不良で苦しんだ折に結婚を報じられた担当医師、そして白づくめのコスチュームで知られる奇人・古澤憲吾監督に、東宝プロデューサーで小津と同様、生涯独身を貫いた藤本真澄。さらには『新しき土』公開時のドイツ行に付き添い、思想面でも共通性があり、引退後も鎌倉城明寺で長く同居を続けた熊谷久虎等々、多数に上る。
これでは〝永遠の処女〟どころか、まるで〝恋多き女〟ではないか。ちなみに、清島との関係を断たせたのは熊谷であり、「(義妹の原と)一線を越えた」からこその横槍だったという向きもある。
結婚を、女優として活躍している期間だけ避けていたのではなく、〈生涯を通じて拒絶した〉ということが、いかなる心情からきたものかは分からない。しかし、原がビール好きで、殊の外気さくな性格であったことは、心を許した友人の中尾さかゑ(結髪)などがよく語っている(※3)。
撮影所では個室があるのに、ほとんど結髪部屋で過ごしたという原。砧にあった中尾の家に度々遊びに訪れたことも有名だが、好きな麻雀を楽しむため、仲間を呼んだのは東京都北多摩郡狛江村岩戸(現狛江市)の自宅だった。新東宝への移籍後、48年初春(47年9月説あり)に四十三万円で購入したこの家は、小田急線喜多見駅から十分ほどのところにあり、熊谷久虎はここにも同居している(※4)。
余程方角が良かったのか、翌49年は藤本真澄製作・今井正監督『青い山脈』のほか、木下惠介の『お嬢さん乾杯』、小津の『晩春』に連続出演。毎日映画コンクール主演女優賞を得るなど、原にとってはピークの年となる(※5)。