その後、何故『毒猿』の映画化をやらないのか……。多くの関係者、映画人からの声が上がった。一番は大沢在昌さんであろう。
振り返ると残念なことだが、もし『新宿鮫』が配収5億円以上の興行になっていれば、『毒猿』は出来たかもしれない。フジテレビの映画の優先事項が「ヒット映画」の方向に傾いて行き、ぼくは『水の旅人 侍KIDS』を最後に、『南極物語』から始まった「夏休みの国民的ヒット映画」製作は降りたような形になった。
ちょうどその頃、岩井俊二監督と出会い、『Love Letter』の映画化、そして翌年の『スワロウテイル』と独自路線に走ることになる。
それでも大沢在昌さんに会うと『新宿鮫』の映画チームで、是非『毒猿』の映画化を! と言われ続け、今でも日本で『毒猿』の映画化は行われていない。NHKからのドラマのオファーの際も連絡をいただいた。

生前、酒の席だったか崔洋一監督と二人になった時「君らが毒猿やらないんだったら俺にやらせてくれ!」と懇願されたことがある。無論、ぼくが権利を持っているわけではないのだが、多くの映画人が熱望していた原作であることは確かだ。
フジテレビの放送で『新宿鮫』は15%以上の視聴率を取り、番組としては「合格」だったが、その時点で、ぼくの中ではそれまでの地上波をベースにした旧来の映画製作とは決別しようとしていたのだと思う。フジテレビの外(ポニーキャニオン)に出るのはそれから数か月後のことである。
それにしても、大沢在昌さんの想いを思い起こすと、顔向けできない気持ちは今も続いている。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。











