当時、<夢の遊眠社>と人気を二分していたのが鴻上尚史主宰の<第三舞台>。紀伊國屋ホールに『朝日のような夕日をつれて』(1987)を観に行った時が鴻上さんとの初対面だった。とても面白い舞台だったこと、彼と同い年だったこと、野田秀樹さんとの映画が無くなったこと……諸々のこともあったのか初対面なのに「一緒に映画やろう!」となった。『朝日のような夕日をつれて』の映画化も考えられたが、既に彼はオリジナルストーリーで10稿目ぐらいにもなる脚本を書いていた。そのシナリオは『引田10稿(テンコウ)』とも名付けられ、コミカルタッチで面白く読んだ。
ちょうど「シネスイッチ銀座」を1987年12月からスタートすることを決めていたので第1弾の映画『木村家の人びと』(1988/滝田洋二郎監督)に続く2弾目の邦画としてやることにした。タイトルは『ジュリエット・ゲーム』(1989)。初対面がお互い28歳で、翌年には撮影を始めていた。国生さゆり、村上弘明が主演で、演劇の人では無く、鴻上さんも初監督で、なかなか思う通りの画作りは困難だったと思う。35ミリフィルム撮影、カメラマンは巨匠の仙元誠三さん(『蘇る金狼』等)で緊張の連続だっただろう。シネスイッチ銀座ではヒットしたが、映評は賛否渦巻き、やはり「異業種人」がやった映画と言われた。

その数年後、鴻上さんから連絡があり、敬愛する大林宣彦監督の現場に密着したい! と。『水の旅人 侍KIDS』(1993)のスタッフや助監督というのは無理なので、撮影のドキュメンタリーを『映画の旅人・大林宣彦の世界/鴻上尚史』としてビデオ発売することとした。ぼくが現場に行くと、だいたい鴻上さんがビデオ撮影していて、映画への情熱はまだまだあると感心した。その後『青空に一番近い場所』(1994)など5本くらいの映画を監督している。














