さて、この間、「池袋の夜」(69年)が150万枚、「長崎ブルース」は1969年のリリースで120万枚の大ヒットだが、第24回紅白で初披露されたのは5年後の1973年だった。この時の白組は森進一が「冬の旅」で対抗した。文字通り、ため息路線、ハスキーボイスの競い合いが話題になった。「札幌ブルース」、「盛岡ブルース」、「新宿サタデー・ナイト」等なども〝ご当地ソング〟の範疇だろう。その他にもご当地ソングというべき楽曲は多いが1970年代に入ると大ヒットに恵まれていない。それでも1982年発表のシングル「横浜みれん坂」では、第1回日本作曲大賞協会賞を受賞。1984年には初のブラジル公演を開催している。デビュー25周年となった1990年に「レディ・ブルース」で第32回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞するなど、テレビ番組やコンサートなどに精力的に出演し続けていたが、その歌手活動、芸能活動はデビューから10年も経ず、〝一瞬〟のようにも見える。
受賞歴をふりかえると、【1968年度】第10回日本レコード大賞・歌唱賞「伊勢佐木町ブルース」、第1回日本有線大賞・スター賞「伊勢佐木町ブルース」、第1回全日本有線放送大賞・優秀スター賞「伊勢佐木町ブルース」 【1969年度】第11回日本レコード大賞・歌唱賞「池袋の夜」、第2回日本有線大賞・GOLDENスター賞「池袋の夜」、第2回全日本有線放送大賞・金賞 「池袋の夜」 【1970年度】第12回日本レコード大賞・作詩賞「昭和おんなブルース」、第3回日本有線大賞・優秀賞「国際線待合室」 【1973年度】第15回日本レコード大賞・日本レコード大賞制定15周年記念賞 【1978年度】NHK「あなたのメロディー」・年間最優秀曲賞「盛岡ブルース」 【1984年度】NHK「あなたのメロディー」・年間最優秀曲賞「中洲・那珂川・涙街」 【1990年度】第32回日本レコード大賞・優秀アルバム賞「レディ・ブルース」 【2000年度】第42回日本レコード大賞・日本作曲家協会特別功労賞。
記録では、プロの歌い手としての活動は、1966年のデビューから1999年とある(ビクターエンタテインメント)。数えれば33年間だが「恍惚のブルース」からの〝青江三奈体験〟は、ボクにとっては数える程のヒット曲だけである。それでも自ら喉を潰したようなかすれ声が今でも耳に残っているのは、なぜなのだろうとかえりみることがある。恐らく、「恍惚」という言葉に疑問をもってからずっとこだわっていたのだと思う。
1972年、長編小説『恍惚の人』(原作:有吉佐和子)がベストセラーになり、翌年には映画化され森繁久彌、高峰秀子の名演技とともに、老人性痴呆症の舅(森繁)の世話を焼く嫁(高峰)の、日常の〝格闘〟の物語に多くの人が慄然とした。今ほど、認知症やアルツハイマーという言葉は一般的でなく、恐らく〝耄碌じじい〟と呼んだりしていた。ボクは土砂降りの中を徘徊する無表情の森繁をはっきり覚えているし、座敷に排泄物を塗りたくられて大騒ぎする嫁の高峰の泣きながら掃除する姿も衝撃的だった。そのときはじめて「恍惚」の意味とは、耄碌して〝我、意識に非ず〟か、と思った。長い人生の最後の一瞬の出来事かともいえる。
それなら愛欲の果てに、「あとはおぼろ、あとはおぼろ」という境地もまた、我、意識に非ずとなるのか。癌を患った青江は、一旦別れていた花礼二と19年ぶりに自ら求めてよりを戻す。そして59歳、膵臓癌に斃れる2か月前に婚姻届に署名したという。
青江三奈はまだ10代のデビュー早々から大ヒットを得、人生の一瞬の煌びやかなスポットライトのもとで〝恍惚〟となって夢中で歌謡界を走り抜けたことだろう。ボクも間もなく恍惚の人となるのかと思いつつ、おっとその前に、まだ「おぼろ」ではないうちに「恍惚のブルース」をカラオケで歌ってみたいと思う。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫










