わが昭和歌謡はドーナツ盤

〈無冠〉の大ヒット曲「雨のバラード」を聴きながら、湯原昌幸と荒木由美子のおしどり夫婦の波乱万丈の結婚生活42年に泣き、移籍第1弾の新曲は女の「三行半」に泣く男の歌

 
 過日BSテレビの歌謡番組で、御年78歳の湯原昌幸が出演。久しぶりに「雨のバラード」を聴いて感心した。長年歌い続けた楽曲ながら、流行歌手にありがちなテキトーに流すことがなく丁寧で真面目で感情込めた歌い方に、懐かしさが重なって思わず熱くなった。ややかすれたビブラートになる箇所も往年のまま、しかも声に張りがある。高音にゴマカシがない。リズム感も良い。加齢を強調するわけではないが、あらためて湯原昌幸は歌がうまい、と思った。

 番組はMCとの座談になった。昭和歌謡のあれこれを語る一言半句に無駄がなく言葉に詰まることがない。弁舌鮮やかだ。その記憶力はとても78歳とは思えなかった。昔からベビーフェイスとは思っていたが、若い。語る表情はにこやかで笑顔を絶やさず、憎めない人柄が滲み出て、老年男子にしては可愛らしい。辛うじて、額が広くなったのは(失礼)寄る年波の証か。後述するが、42年前、13歳下の歌手でタレントの荒木由美子と結婚。年齢差が話題になったものの、新婚夫婦は湯原の母親と同居して間もなく痴呆が進む母の介護生活という苦渋の日々があったことなど微塵も感じさせない、屈託のなさだ。 

 
 古い方ならご存じかも知れないが、1957年に結成されたロカビリーから1960年代にはエレキになり、いわばグループサウンズ(GS)の先駆けといえる「スウィング・ウエスト」というバンドが存在した。創立時の初代リーダーは堀威夫(後のホリプロ創業者)と聞いて驚いたが、メンバーには田邊昭知(のちのザ・スパイダース、ドラムス。田辺エージェンシー創立者)がいたり守屋浩や佐川ミツオ(当時、のちに満男)が加わったり離合集散を繰り返すうちに、湯原はテレビ出演「ホイホイ・ミュージックスクール」(日本テレビ)が契機となって1964年にボーカルでこのバンドに参加した。司会も兼ねていたというから彼の饒舌さもこの頃から鍛えられていたのか。ボーカルで参加した湯原のスウィング・ウエストは、1966年7月、日本ビクターから「流れ者のギター」でシングルデビュー。間もなくグループは再編されて湯原が7代目のリーダーとなりいよいよGS風が加わって、1967年9月10日、今度はテイチクの洋楽レーベルのユニオン・レコードから「恋のイザベル」で再デビューを果たす。しかしヒットはならず、同じくテイチクのユニオンから1968年5月10日「幻の乙女/雨のバラード」が発売されている。皮肉なことに「雨のバラード」(作詞:こうじはるか、作曲:植田嘉靖)はB面で発売、GSの趣向が功を奏してわずかにヒットした。しかし、善戦むなしく1970年スウィング・ウエストは解散。湯原はソロ歌手として「見知らぬ世界」をリリースするがヒットは及ばず、雌伏の時を経て、1971年4月1日、「雨のバラード」のリメイク盤を発売。当初ヒットする気配はなかったが、半年もしないうちにオリコンチャートでベスト10位入りし、10月18日付では1位を記録(3週連続)する。わずか6カ月でオリコン上で、約62万枚の売上と発表されている。驚くべき大ヒットとなった。

 

 GSから離れて独り立ちした湯原昌幸、26歳にして歌手、芸能人生の有為転変を予感させる出来事だった。GSブームの走りに居ながら、そのオリジナル曲がソロ・シンガーとなったとき大ヒットに導かれるという僥倖。累計で120万枚のセールスというから、一躍、ソロ歌手として脚光を浴びたのはいうまでもない。だが、今でも〝無冠〟の大ヒット曲と語り継がれているのは、これだけの実績がありながら様々な賞レースや「NHK紅白歌合戦」に選考されていない。この年、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、五木ひろし「よこはま・たそがれ」と、新人とは言えない何らかの形で歌手デビューしていた再出発組の曲が相次いで売れている。湯原もその部類だが、尾崎にしても五木にしても春先からヒットし、夏場には2曲目をリリースし、これもヒットさせている。対する湯原は4月に発売しながら売れ始めたのは秋口で、11月に入って第2弾がリリースされるという状況だった。そればかりではない。1971年のランキングを紐解くと、「雨のバラード」は確かにベスト8位だが、いかにヒット曲豊作の年だったかが分かる。

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