84年11月22日放送の「ザ・ベストテン」の第10位にランクインし、滅多にテレビの歌番組に出ない井上陽水が例の回転ドアから姿を現したときには、思わず椅子から立ち上がってしまった。小室等からはメッセージレターが届き、なんと吉永小百合はスタジオに電話をかけてきて祝福していた。やはり、陽水がテレビに出演するのは特別な出来事なんだなと感じた記憶がある。番組では、初めて買ったレコードという話題になり、陽水はロイ・オービソンの「オー・プリティ・ウーマン」か、舟木一夫の「高校三年生」だった、と答えていた。当日の1位は小泉今日子「ヤマトナデシコ七変化」、2位はアルフィー「恋人たちのペイヴメント」、3位は松田聖子「ハートのイヤリング」、4位は薬師丸ひろ子「Woman“Wの悲劇”より」、5位は安全地帯「恋の予感」というランキングだった。舘ひろしも「泣かないで」が8位にランキングされ出演しており、陽水、玉置浩二、舘ひろしという渋い顔合わせが新鮮だった。
「いっそ セレナーデ」が収録されているセルフカバーアルバム『9.5カラット』がリリースされたのは84年12月21日だった。自身の提供曲を中心に選曲されており、水谷豊「はーばーらいと」(作詞は松本隆)、石川セリ「ダンスはうまく踊れない」、小林麻美「TRANSIT」(作詞は松任谷由実)、沢田研二「A.B.C.D.」、安全地帯「恋の予感」「ワインレッドの心」(作曲は2曲とも玉置浩二)、樋口可南子「からたちの花」(作詞は流れ星犬太郎名義の糸井重里)、そして中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」を陽水自身が歌う。自身2作目のミリオンセラーとなる売上を記録し、オリコンチャートでも1位となった。85年の日本レコード大賞でアルバム大賞を受賞し、授賞式では「いっそ セレナーデ」と、安全地帯との共演で「飾りじゃないのよ涙は」を披露している。ちなみに、大賞は中森明菜「ミ・アモーレ〔Meu amore…〕」、最優秀新人賞は「C」を歌った中山美穂だった。
アメリカに発つ前に4歳年上の友人がこのアルバムをカセットテープにダビングしてくれもたせてくれた。音楽業界で仕事をしており、スティング、小田和正、稲垣潤一などのコンサートにも呼んでくれ、「雨の歌」、「九月の歌」、「さくらの歌」、「東京の歌」、「海の歌」など、テーマを設定して独自のコンピレーションアルバムを作っては、いつもプレゼントしてくれていたが3年前の8月に亡くなった。食べることが大好きで旨い店をよく知っていて、ハイセンスでおしゃれな友人だった。
シカゴから東京に戻り、誘ってくれたアメリカ人の友人と「nadir(ナディール)」という雑誌を創った。〝東京の今〟のカルチャーを発信したいと考え、パリ、ロンドン、ニューヨークなど海外でも発売していた。大使館も応援してくれドイツ人やオーストラリア人の読者から手紙が届いたりもした。87年頃だったか、松任谷由実の特集を組むことになり、ユーミンを知る3人に原稿を書いてもらうことになった。作家の林真理子、俳優の藤真利子、そして井上陽水。執筆依頼で青山の事務所を訪ね、井上陽水と初めて対面した。言葉使いも丁寧で優しく、あの声で「こんにちは」と挨拶する表情はスマイルだった。
その縁だったのだろう、89年に陽水がシングル「夢寝見」をリリースし、久しぶりにテレビの歌番組「ミュージックステーション」に出演することになったとき、バックダンサーや、ファッションなどのヴィジュアル面でお手伝いをすることになり、たびたび陽水と会ったが、変わらず丁寧な物言いで、穏やかなスマイルを湛えていた。
「いっそ セレナーデ」を聴くと、シカゴでのアパート暮らしで通ったスーパーマーケットやミシガン湖の風景、まったくの素人ながら編集者として初めて創った雑誌のこと、そしてぼくにさまざまな音楽シーンを体験させてくれた年上の友人との日々が浮かんできて、なんとなくメランコリックな気分になってしまう。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫
※次回の「わが昭和歌謡はドーナツ盤」の立ち上げは12月11日になります。












