特に熱心なファンというわけではなかったが、小学生低学年の頃から坂本九の歌にはなじみがあり、世代を超えて親しみをこめ〝九ちゃん〟と呼ばれていた愛されキャラの彼の歌はよく知っているし、よく歌っていた。「あの娘の名前はなんてんかな」、永六輔作詞、いずみたく作曲による「上を向いて歩こう」と並ぶ代表曲で63年レコード大賞作曲賞受賞の「見上げてごらん夜の星を」、青島幸男作詞、中村八大作曲「明日があるさ」、原曲はアメリカ民謡だが坂本九の歌で知られる「幸せなら手をたたこう」、64年の東京オリンピックのウェルカムパーティで各国選手団・外交使節団の前で歌唱した永六輔&中村八大コンビの「サヨナラ東京」、俳優の森繁久彌と伴淳三郎が小児麻痺に苦しむ少年・少女を救済すべく結成した芸能人チャリティ団体「あゆみの箱」のテーマソングでもある、やはり永六輔&中村八大コンビによる「ともだち」、映画化もされた「九ちゃん音頭」、浜口庫之助の作詞・作曲で多くの歌手により歌われている「涙くんさよなら」も親しんだのは坂本九の歌声だった。フィンランドの民謡で、その曲にあわせて誰もが踊ったジェンカの「レットキス(ジェンカ)」も流行った。
85年8月12日、日本航空123便墜落事故に巻き込まれ、坂本九は43歳で人生の幕を閉じた。にわかには信じ難い報道に日本国中が坂本九の無事を祈った。日本中に笑顔をふりまき、歌手としてだけでなく、「若い季節」「天下御免」など俳優としても多くの作品に出演し、人形劇「新八犬伝」は黒衣姿でナレーションを担当、「スター千一夜」の司会でみせたゲストに気持ちよく語らせる巧みな話術、マルチな才能の持ち主だった。
61年に「上を向いて歩こう」で紅白歌合戦に初出場以来、71年まで連続11回出場している坂本九。68年と69年には2年連続で白組司会も務めた。その死後も、紅白でも多くの歌手によって坂本九の歌は歌い継がれている。95年には阪神・淡路大震災の被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画として南こうせつが「上を向いて歩こう」を歌った。2000年の第一部終了後、2004年の第一部後半には出場歌手全員が「上を向いて歩こう」を斉唱した。2011年には東日本大震災の復興ソングとして、松田聖子・神田沙也加母娘が中継で歌唱している。
今、改めて「上を向いて歩こう」を聴いていると、〝九ちゃん〟の愛くるしい顔と一緒に草野浩二さんの顔が浮かんでくる。草野さんの実兄は作詞家、訳詞家であり、雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長やシンコーミュージック・エンタテインメント会長も務めた漣健児さんだ。坂本九「ステキなタイミング」、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、中尾ミエ「可愛いベイビー」などの訳詞者として知られる。訳詞というより超訳と言われているようだ。「コモレバで漣健児さんの特集をやりましょう」と草野さんと盛り上がった。固い約束ではなかったが、それが果たせなかったのが心残りだ。「上を向いて歩こう」は、ぼくの心に苦い思い出も刻み込む歌にもなってしまった。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫











