向田邦子の散歩道

あの日の散歩道での新たな出会い

 あれから三十年。今、心に寄り添う、和む、刺激を受ける、そんな探し物をする。私だけのもの、秘密にしたいほどの出会いもいい、会いたい。

 西麻布という番地表示がある、といっても人通りもあまりなく、ひっそりとたたずむ。通りすぎてしまっても不思議ではないはずなのに、涼やかに自己主張している様子もうかがえる。

「さかむら」。店前にはやわらかな濃淡のある緑の草木。入っていいのかな、と思うほど生活感の自然さがある。以前は何に使われていたのだろう、うまく再利用されている棚に、骨董、素朴な土器などが空間も楽しげに置かれている。朝摘んでこられた草花が、〝こりゃプロ〞と舌を巻くあしらいで生けられ、〝さりげなさの美〞を知らされる。物があふれる程置かれていないのがいい。目を凝らすと、気になる品が次々と飛び込んでくる。飲物、御酒、食べ物あり。

 コーヒーをいただく。手におさまりのよい熱くない木彫りの器。飲みやすく、手にとってよし、置いてまたよし。この空間で本を読むのも、心地良さを思う。強いが静かな主張という個性も、御主人の姿勢も、おしつけがましくない雰囲気に漂う。散歩の途中に、ふっと気軽に新しい器とともに会いたくなる店。

 気分よく歩く一万歩は体がよろこぶのか、自然な流れで喉が渇き腹が空く。

さかむら
華道家の坂村岳志さんが、花器を中心とした骨董と喫茶の店として2001 年にオープン。骨董が大好きだった邦子さん。飾ったり、仕舞い込むのではなく、身近に日常使いをしていた。この店と出合っていたら、どんな花器を求めどんな風に花を挿したであろう。いや、もしかすると、花器以外の用途を考えたかもしれない。和子さんはこの日、麻雀のときのお守りとして竹製の麻雀牌を購入。

 二階建ての凝った造り、これは何かしら。

「豚組」。とんかつ専門店。
 こんなしゃれた店でとんかつ、ウフフ……。

 お父さんのとんかつは厚くて大きくてふんわりしていた。私のは薄くて固い。そんなひがみ根性で横目で見ていた。ソースもジャブジャブかけて、キャベツ、ポテトサラダ、トマトつき。やたらおいしそうに見えたものだ。とんかつといえば、連想ゲームのようにこんな光景があらわれる。

 由緒正しい豚肉、衣も吟味、揚油も上等。うまい、うまい。出されるタイミングも心憎い。二階のくり抜き窓からの外の景色も情緒あり。豚肉のうまさの違いを知るのも、ここならではと思う。

 佳日(よきひ)の締めは、バーにしたい。

 なんて間がいいんでしょう。「豚組」のご近所にラム酒だけ扱うバーがある。ここ、バー? と思う程入りやすい雰囲気。ごく自然体で一日の思い、余韻にひたり、自分自身を自由に解放し、やすらぎの深呼吸。明日のためのリラックスタイム。

 邦子と無意識にそぞろ歩いた青山、麻布界隈。三十年の時を経て何がよみがえってくるのだろうか。

 怖くもあり愉しみでもあった。

 無意識のなかの記憶のあり様も少し解った。

 古さ新しさの区別なく、本物はいつも新鮮で輝いている。本物にならないと本物が見えないのだろうか。歩きながら感性豊かに街を観察する。まだこれからも歩く、歩く……。

 本物に出会えるように。本物になるために。

─ 私のように知識も鑑定眼も持ち合わさない人間は、体で判断するほかはない。背筋がスーとして総毛立ったら、誰が何と言おうと、私にとっては「いいもの」なのである─ 『眠る盃』より

とんかつ 西麻布 豚組
表通りから一筋中に入ると違う風景が広がる。昭和の面影を残すそんな路地に佇むのが、趣深い木造2 階家の豚組。邦子さんが愉しんだ散歩は、こんな脇道でのサプライズであったのかもしれない。とんかつ膳はロースとフィレがあり、この日和子さんが注文したのは、なっとく豚(岐阜・下呂)のロース膳2,300円。
ラム酒と喫茶 Tafia(タフィア)
ラムが共通語化する前は「キルデビル」「ネルソンズ ブラッド」などさまざまな呼び方をしていたが、「タフィア」もその一つ。アルコールはラム酒のみで、約300 種類のラムが揃っている。世界のいろんなエリアで造られている酒だけに、味のバリエーションがラムの魅力であり、絶対好みのラムが見つかるはずと語るオーナーの多東千惠さん。

むこうだ かずこ
エッセイスト、東京生まれ。実践女子短期大学卒業後、会社勤めや喫茶店経営を経て78 年に姉・邦子とともに東京赤坂で惣菜・酒の店「ままや」を開き、姉亡き後も98 年3月に閉店するまで20 年間きりもりした。著書に『かけがえのない贈り物 ままやと姉・邦子』『向田邦子の青春写真とエッセイで綴る姉の素顔』『向田邦子の遺言』『向田邦子の恋文』『向田邦子 暮しの愉しみ』などがある。

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