なぜか。ぼくの答えはこうだ。
「いい顔だから」
「いい顔」というのは二枚目や美男子とは違う。ココ・シャネルが「20歳の顔は自然からの贈り物、30歳の顔はあなたの人生、50歳の顔はあなたの功績」と言ったように、人生の足跡の一つ一つが彫り込まれた顔である。
▲昭和27年(1952)、母のあさゑと一緒に『晩春』『麦秋』の舞台にになった鎌倉に転居した。写真は、鎌倉の自宅にあった鏡の中に写った小津。鎌倉では作家たちとさかんに交流した。里見弴邸のパーティに俳優の佐田啓二、岡田茉莉子らと参加したこともあった。自宅にあるものも趣味に合ったものばかり。それらが撮影にも使われた。この鏡も使われたのかもしれない。写真提供:オフィス小津、鎌倉文学館 小津映画のスタッフや出演者の証言から分かるのは小津が人を想うやさしさや人を笑わせるユーモアを持つ人物だったことだ。同時に仕事では妥協をしない、厳しい人だった。そして、飲んだり食べたりが大好きで、たくさんの本を読み、たくさんの美術品を鑑賞した。そんな小津の顔写真を見ていると、小津映画の世界の住人に見えてくることがある。ローポジションで撮られた畳の居間に小津がいてもきっと違和感はない。
▲『秋刀魚の味』(1962年11月公開)の執筆中、小津は最愛の母を86歳で亡くした。本当に独り身になった小津だった。『秋刀魚の味』で主人公の周平が、「いやぁ、寂しいんじゃ。悲しいよ。結局、人生は一人じゃ。一人ぼっちですわ」と言うが、これは小津の心情そのものだったのだろう。写真は、鎌倉の自宅で寛ぐ母・あさゑと。写真提供:オフィス小津、鎌倉文学館 小津映画の俳優もみんな「いい顔」をしている。小津の分身とも言うべき笠智衆はその代表だ。ぼくが十代の頃から、年を取ったらこんな老け顔になりたいと憧れた人である。一度だけ取材する機会があったのだが、映画のまんま。何もせず、何も喋らず、そこに突っ立っているだけでも笠智衆なのである。同じ場所にいて、同じ空気を吸っているだけで心がほころんでくるような人だった。
小津は英国の時計メーカー、J.W.ペンソンの時計を愛用していた。敬愛していた志賀直哉にも贈り、自身も愛用していたが、酔って紛失。それを聴いた俳優の佐田啓二、高橋貞二らがプレゼントしたのが銀製(右)その後自身で買い求めたのが金製(左)。オフィス小津蔵・鎌倉文学館寄託 もちろん、この空気は笠智衆が生きてきた時間が醸成するものだろう。とりわけ小津との時間が「いい顔」をつくったに違いない。小津はある時、笠にこんな注文を出した。
「君は、悲しい時には悲しい顔、嬉しい時には嬉しい顔、なんか絵に描いたような演技をするね。俺のところでやる時は、表情はナシだ。お能の面でいってくれ」(笠智衆『小津安二郎先生の思い出』より)
▲小津は大の酒好きだった。長野県蓼科高原の別荘に滞在したときは毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をしたという。大変な食通でもあり、気にいった店はノートに書きとめておく習慣があった。鎌倉にある「天ぷら ひろみ」もよく通った。丼つゆのしみた天ぷらをつまみに、手で持てないほどの超熱燗を飲みながら店主や女将と話すのが好きだった。オフィス小津蔵・鎌倉文学館寄託