私生活では私の父、アンリとの出会いがあった。船乗りと画家は神戸で知り合った。絹子が長い髪をなびかせて自転車を漕いでいるのに、アンリが「ハロー」と声をかけたらしい。ロマンチックないきさつがあったはずだが、絹子は自らの結婚を語るのに「騙された」以外の言葉を持たなかった。彼女がアンリから逃げきれなかったのは、彼の美貌のせいだろう。画家は美しいものが好きなのだ。
結婚して5年で、ようやく私が誕生する。子供を強く望んでいたアンリは、そうなると手のひらを返し、酒と女に溺れた。子供さえいれば妻は自分から逃げられない、という計算だったのだ。当時は珍しい国際結婚だったが、これまた当時は珍しい家庭内離婚がわが家の現実となる。
絹子にとっては、結婚も出産も流れに任せた結果だが、いかなる時も絵を忘れたことはなかった。私の誕生前後から、抽象画は世間では一種のブームとなり、絹子は寝る間を惜しんで制作に集中した。
「あんたには布団はいらんな」
関西の母は腕まくりをして上京し、育児と家事を手伝ってくれるようになった。小さな私は言ったらしい。
「私のお母さんはおばあちゃんだと思うんだけど、もしかしたらママかな」
その頃のことだろう。鍵のかかったアトリエのドアを、私は小さな拳で叩き続けたという。心を鬼にして、絹子は絵筆を離さなかった。この辺りの記憶は、私にはない。