私が中学生になる頃には、絹子の忙しさは一段落していた。制作から解放されると、彼女は良き主婦と言いたいところだが、それを通り越した完璧主義を発揮した。朝、私を起こすのに、まずは雨戸を開ける。その音と光で半分目の覚めた私の足にソックスを履かせる。それから上体を起こす、という手間をかける。
私が食べ盛りになると、母は毎日3つの弁当箱を満杯にした。ひとつはご飯、もうひとつはおかず、三つ目は早弁用のサンドイッチである。デザートのフルーツは、オレンジの薄皮まで剥いてあった。
これは私が最初の留学から戻った時の話。フランスから送った衣類の箱が着いた。中身はもちろん洗濯済みである。絹子はすべて洗い直した。なぜだか聞いてみると、「フランスの水は汚い」との答え。確かにあちらの水は硬水だが、その手間をかける時間を絵に回したほうが、と娘は考える。しかし絵に完璧を求める画家は、家事も芸術的にこなすのが習い性となっていた。
祖母は私が大学を卒業する年の冬に亡くなった。寝付くことなく天寿をまっとうしたが、絹子には母親が死ぬという発想がなかった。数日で10キロ近く痩せた。血圧の乱高下を始め、全身に不調が出た。夏には秋の展覧会のために大作を仕上げるのだが、この年は暑さの中であんかを抱えて布団にくるまっている。それでも絹子はアトリエに入った。声をあげて泣きながら描くのは、人生で初めての体験だった。