川喜多長政 &かしこ映画の青春

1957 年、ロンドンで映画『ギデオン』を撮影中のジョン・フォード監督(右)を撮影所に訪ねる。フォード監督の隣は黒澤明監督。

近代女性のモデルになった
川喜多夫人

 私が映画を夢中になって見るようになったのは、敗戦直後、まだ十代の予科練帰りの少年だった頃だ。戦争に負けたおかげで見ることができるようになった外国映画をあびるように見て、戦争中の自分がいかに世界を知ることなく、独善的な軍国主義をうのみにしていたかを反省し、映画に志を立てた。当時私を夢中にした映画の中でとくに芸術的にすぐれていると思ったのは、東和商事という会社が戦前に輸入公開して、フィルム不足の敗戦後にも盛んにリバイバル上映していたトーキー初期のヨーロッパ映画だった。フランス映画の『巴里祭』や『どん底』、オーストリー映画の『未完成交響楽』や『たそがれの維納』。世界はこんなにも美しく魅力にあふれているのかと驚いたのである。

 この東和商事の社長が川喜多長政であり、その東和商事に英文タイプのできる若い秘書として入社して社長に見初められて結婚したのが川喜多かしこ夫人である。結婚して間もなく、一緒にベルリンに映画の買付けに行ったが、そのとき長政氏が、結婚の記念に一本は君の選んだ作品を買おうと言った。そこでまだ若いかしこ夫人が選んだのが『制服の処女』だった。これは長政氏が商売にはならないだろうと思った作品だが、日本で公開すると大ヒットで名作と評価された。以来、かしこ夫人の名声は高く、一時代を築いた東和配給の名作はみんな夫人の選んだものだというふうに噂された。事実そうなのかもしれないが、その点では長政氏はあえて沈黙することで夫人の名声を高めるよう心がけたという面があると私は思う。女性の実業家は珍しかったし、しかも文化的事業でリーダー的な女性となると日本社会の近代化のシンボル的な存在でもあり得たからである。一九三八年の松竹大船映画『半処女』では川喜多夫妻をモデルにしたと思われる人物を佐分利信と三宅邦子が演じている。そこでは三宅邦子の外国映画輸入会社の社長秘書が、たいへん聡明で理知的な、つまりは近代的な女性の模範として描かれている。川喜多夫人は近代女性のモデルになったのだ。

 川喜多夫妻は高級なヨーロッパ映画の輸入と配給の仕事で名声を得たのだが、本当の夢は日本映画の輸出で、夫人が東和に入社して長政氏から最初に与えられた仕事も溝口健二監督の新作の輸出のためにそのストーリーを英訳することだったそうである。しかし当時は日本映画の輸出は難しく、それならばと長政氏がやったのは、よく知っているドイツ映画の監督アーノルド・ファンク氏を日本に招いて日独合作映画の『新しき土』(一九三七)をプロデュースすることだった。この作品は新人の原節子を一躍大スターにしたことで有名になったものだ。

1956年のヴェネチア映画祭で、左から三益愛子、かしこ夫人、牛原虚彦監督、審査員を務めるルキノ・ヴィスコンティ監督、マリア・カラス。
1956年、ロンドン・フィルムの全スタジオを借り切って、直接関係者以外、ジャーナリストも カメラマンも一切立入禁止という状況のなか、特別な好意により『ニューヨークの王様』を撮 影中のチャーリー・チャップリンを訪ねた川喜多夫妻。
1956 年、フランスのサン・モリス撮影所にジャン・ルノワール監 督『恋多き女』を撮影中のイングリッド・バーグマンを訪ねて。 左は娘の川喜多和子さん。
1964 年、イタリア映画際 で来日のクラウディア・カ ルディナーレと一緒に。こ の来日時にはテレビのス ター千一夜にも出演してい る。『刑事』『若者のすべて』 『山猫』『ブーベの恋人』 などでおなじみである。
1957年カンヌ映画祭にて川喜多夫妻、ジャン・コクトー、今井正監督作品でキネマ旬報、ブルーリボン賞、毎日映画コンクールなど数々の賞に輝いた映画『米』に出演の女優中村雅子。

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