川喜多長政 &かしこ映画の青春

日本映画の普及に
心血を注いだ
映画文化運動の旗手

 私が、いわば憧れの川喜多夫妻の知己を得るようになったのは、私が映画批評家になった一九五〇年代末からである。以来、ずいぶんお世話になった。お食事に招かれたこともある。と言うと、ご夫妻は映画業者、私は業者でも批判すべきはする批評家なのに、さては癒着関係か、と疑われるかもしれないが、そうではない。じつは、ご夫妻、とくにかしこ夫人には、映画業者という以外に大きな仕事がいくつかあった。

 一九五〇年代に日本映画が突如として世界的に高く評価されるようになったとき、世界の映画研究者や国際映画祭関係者、フィルム・アーカイブ(映画保存所)などが日本の映画界と連絡をとろうとしても、その仲介の出来る人は川喜多かしこ夫人しかいなかったのである。まず、知られざる日本映画の名作を百本も集めてパリやロンドンで映画祭をやりたい、という相談が彼女のところに来る。日本にはそんな作品を集めている施設なんてない。そこで彼女がやったことがすごい。日本映画各社を説得して倉庫の中から旧い作品を集め、字幕をつけて外国の上映会にまわす。さらにせっかく集めた日本映画の名作を保存し管理する施設を日本政府に作らせる文化運動を起す。こうして実現したのが東京国立近代美術館フィルムセンターなのである。

 夫人が単なる映画輸入業者の枠を超えたボランティアの文化活動家として行なった最大の仕事はこれで、他にも、一九七〇年代に日本のアート系映画を支えたATG(日本アートシアター・ギルド)という会社を作った影の主役は彼女だったし、妹分のような存在だった故高野悦子さんと組んで岩波ホールの良心的な映画上映活動をはじめたのもかしこ夫人なのである。

 私は川喜多かしこさんから、商売とは違うこういう文化活動や、そのための拠点づくりの仕事でよく協力を呼びかけられ、手伝い、PR活動などを喜んでやった。また彼女は外国人の日本映画研究者の世話をやくことに熱心で、そのためにご自分の自由になる試写室を積極的に使わせた。特に重要な客のときは招待の席を持ったが、そんなとき私は、外国人の話相手になれる日本映画史の専門家としてよく招待された。そうした商売を離れた文化活動の面で私たちは信頼しあえる同志だった。もちろん、あの、つねに紫色の和服の美しい夫人から声がかかれば、なにはさておき私がかけつけたのは言うまでもないが。

1963年に鎌倉の川喜多邸を訪れたアラン・ドロンとかしこ、和子母娘。ジェラール・フィリップが50年代のフランスの美の代表者、それも知性の美の象徴としたら、アラン・ドロンは60年代の野心の美の代表といえるだろう。かしこ夫人は「小憎たらしいほど頭の切れる男」「悪役をやらせたら天下一品」とドロンを評している。
1965年のカンヌ映画祭には小林正樹監督『怪談』が出品され、その中の一編「黒髪」に出演した新珠三千代もカンヌ入りした。写真左端が長政氏。
1977年カンヌ映画祭で山口百恵とかしこ夫人。当時トップ・アイドルだった山口百恵は女優としても『伊豆の踊子』『潮騒』『春琴抄』『霧の旗』『古都』などに主演している。
1974年、パリの「現代日本映画20選」上映会にて、右より京マチ子、三船敏郎、かしこ夫人、アラン・ドロン、ナタリー・ドロン。
1980年、カンヌ映画祭での川喜多夫妻、娘和子、映画研究家オーディ・ボック女史、フランシス・フォード・コッポラ監督。

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