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91歳の相撲記者・杉山邦博の秘蔵アルバム(最終章)

─── 国技の語り部が伝える名力士たち

語り下ろし/写真提供 杉山 邦博(文責・編集部)


名場面、名勝負の土俵に人生あり

杉山アナウンサーは、56歳でNHKを定年退職し、引き続きBSの大相撲放送のスタート時などでも実況を続け63歳まで40年余りにわたってマイクを前にした。昭和の大相撲から平成に入って間もなくの若・貴兄弟フィーバーも伝えてきたことになる。しかし、その後も花道横の定席から今日まで、忘れられない名勝負、名場面を見続けてきた。「抑制の美」を伝えるために。

猛稽古を厭わぬ力士たち

 現在は40以上の相撲部屋がありそれぞれ稽古にも特徴がありますが、出羽一門、二所一門の稽古場は緊張感が違いました。私が見てきた一番稽古をした人を挙げろと言われたら、横綱北勝海、大関若嶋津、関脇富士桜、そして横綱大乃国らが思い浮かびます。

 富士桜は、身長176センチで小柄でしたが、頭からぶちかまし、突っ張りと押しで、どんな相手にも真っ向から立ち向かっていきました。「突貫小僧」の異名を持ち、「稽古をしないと酒がまずい」というだけあり、角界酒豪番付では横綱級。激しいぶつかり合いの稽古をしていたとき、髷の紐が切れたのです。土俵の若い者が応急処置をするのですが、「早くしろ!」という富士桜の声が今でも耳に残っています。だからあの小さい体で関脇までいったのです。

写真【「杉山さん、断髪式での司会をお願いします」と直々に要請された。貴ノ花の断髪式は引退から4ヶ月後の昭和56年5月29日。当日は雨が降っていたが、蔵前国技館は1万2千人の超満員。254人が鋏を入れることになり、兄である二子山親方が、止め鋏を行った。貴ノ花が目を閉じる中、大髻(おおたぶさ)が落とされた。引退会見で苦しかったこと、辛かったことを問いかけると、「これからの方が苦しい気がします。楽しかったことはあまりなかった気がします。苦しかったことの方が多い。でも悔いはありません」と実にさわやかなさっぱりした表情だったと杉山氏。昭和56年9月場所、スーツ姿になった貴ノ花こと藤島親方が放送席にゲストとして登場した】

 若嶋津は二子山部屋に入門したときあまりに体が細く、親方(初代若乃花)から「お前、割り箸みたいだな」と言われましたが、親方は若嶋津の大きい足を見てこいつは伸びると見たそうです。当時部屋には若・貴兄弟、二代目若乃花、隆の里、太寿山などもいたなか、群を抜く激しい稽古をしていました。

 北勝海は、昭和54年3月場所、111人もの力士が入門し同期には北尾はじめ注目された若者が何人もいました。元横綱北の富士が師匠を務める九重部屋に入った北勝海(当時保志)は、うまくいけば十両だろうと、あまり期待されていない力士でしたが、実にひたむきに稽古を続けました。同部屋の千代の富士の胸をめがけて何度もぶつかり、転がされては起き上がり、まっすぐ押したて、また転がされ、この繰り返しでした。顔面蒼白、唇は紫色、ゲーゲーとせき込みながら、なおも起き上がりぶつかるその姿は壮絶を極めました。稽古を終えた北勝海に「つらいでしょう」と声をかけると、「自分は相撲の稽古をつらいと思ったことは一度もありません。父は北海道の漁師で毎晩出漁していきます。寒かろうと、海が少々荒れようとも、休まず働き続ける父に身をもって教えられました。父の仕事に比べれば、相撲の稽古をつらいなどとは言っていられません」と即座に返ってきました。

写真【第61代横綱・北勝海は、昭和54年3月場所初土俵。昭和61年3月場所関脇で初優勝した。平成2年3月場所、優勝決定戦は横綱北勝海、大関小錦、関脇霧島による12勝3敗同士の巴戦だった。北勝海は一巡目小錦と対戦し敗れる。次の小錦対霧島は、霧島が寄り切りで勝つ。再度北勝海が霧島と対戦。初優勝を意識した霧島は塩を取るのも忘れるほどだった。霧島を破り再度小錦と対戦した北海勝は左下手投げで小錦を倒し6度目の優勝を果たす。引退後八角親方として弟子の育成にあたっている。現在、日本相撲協会理事長】

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