一方の有馬稲子は1934年4月生まれ。複雑な家庭環境のもと、韓国と日本を往復する幼少期を送り、戦後、漁船での密航という劇的な方法で引き揚げると、大阪の実父のもとで辛い少女時代を過ごす。
過酷な現実から抜け出すべく受験した宝塚音楽学校に、難関を突破して合格(943人中69人)したのは、養母から習った日舞の腕もさることながら、中学の学芸会で「美少年」と称された端正な容姿が買われたものであろう。
翌49年に進んだ宝塚歌劇団では花組に編入。養母の名を継いで「有馬稲子」を名乗る。
50年、早くも頭角を現した有馬は、東宝『寶塚夫人』(51)で映画初出演。映画に向いていたのか、豊田四郎監督『せきれいの曲』のヒロイン(音楽学校の生徒役:美智子上皇后も記憶に残ると有馬に語った)に抜擢、千葉泰樹監督『若人の歌』では池部良の恋人役を務める。
52年秋、東宝から『ひまわり娘』への出演を請われ、渋っていた歌劇団側も了承。53年1月に東宝入りが決まった有馬(※3)が「演技の勉強になる仕事にだけ出してほしい」、「俳優座で演技の勉強をさせてほしい」と求めたことや、『二十四の瞳』の原作権を得るべく自ら壷井栄のもとに出向いた逸話からは、彼女の強い上昇志向が窺える。
「第二の原節子」として売り出しを図る東宝が有馬に与えたのは、水谷八重子の娘役『母と娘』、池部良とのコンビ作『都会の横顔』、小泉博と結ばれる『幸福さん』など、いずれも主役級の役柄ばかり。しかし、彼女の満足度は低く、マスコミへの対応を拒んだりしたことが会社の不興を買う。
「ごてネコ」と綽名されたばかりか、『都会の横顔』の清水宏監督などは「あいつは生意気だからほっとけ!」と、食事を共にすることもなかったほど。『幸福さん』の千葉泰樹からも「えらく暗い子だね」と評されたという。
左翼系プロダクションによる『にごりえ』(今井正監督)出演が難しかったのは当然としても、54年1月の再契約の際に認めさせた他社出演はなかなか叶わず、『雪国』など、自ら提案した企画で実現したのは『泉へのみち』(55)のみ。市川崑の『わたしの凡てを』(54)や、やっと使ってもらった成瀬巳喜男の『晩菊』も小さい役でしかなく、やはり今井正の独立プロ作品『ここに泉あり』出演を拒否された有馬は、(東宝所属のまま)「にんじんくらぶ」への参加を決意する。
オムニバス作品『愛』(54:若杉光夫監督)で初めて、強硬的手段により他社出演を果たした有馬。続いてオファーがあった日活『愛と死の谷間』と新東宝『億万長者』も出演を認められず、東宝への不満は募る一方。『君死に給うなかれ』では病気降板の憂き目にも遭う(代役を務めたのは司葉子)。
かくして、念願の企画『夫婦善哉』撮影中止(再開の折は淡島千景が有馬の役を演じた)の一件で東宝との軋轢は決定的となり、自宅に引き籠った有馬は辞表を提出。『泉へのみち』公開後の55年3月に退社が認められ、フリーの立場で松竹入社の運びとなる。
女優意識の高さ・自己主張の激しさから、穏やかな社風の(池部良は「サラリーマン会社」と称した)東宝を飛び出した岡田と有馬の二人は、移籍先の松竹でもライバル関係を運命づけられる。
渋谷実監督『もず』(61)では、「淡島千景の娘」役(二転三転の末、岡田から有馬にスライド)を巡ってトラブルに発展。松竹が配慮したものか、そもそも少なかった二人の共演作は同じく渋谷実の『大根と人参』(65)くらいしかない(※4)。
そんな二人が東宝時代に共演したのが『愛人』(53)という映画だ。市川崑のスピーディーでテンポの良い演出に酔わされる本作で、有馬は映画監督・菅井一郎の娘、岡田は舞踏家・越路吹雪の娘に扮し、親同士の結婚により二人は義理の姉妹となる。
映画監督一家が住む洋館は成城で撮影され、ロケを目撃した方に聞くと、このとき岡田はお付きの人に、「私は今日、ご機嫌がよくない」と言って、不貞腐れた様子を見せていたというから、すでに不満が溜まっていたのだろう。
有馬にとってはやりがいを感じ、市川と危ない関係になるきっかけともなった本作。自著では、撮り直しを要求した有馬に監督が簡単にOKを出したことに、岡田がかなりカチンときていた様子が記されている。二人が並び歩く成城桜並木シーンからは、のちのライバル関係を見越したかのような緊張感が伝わってくる。

翌54年の『結婚期』でも共演した二人。有馬が主演の鶴田浩二から求婚を受ける役だったのに対し、岡田はここでも芸者役という相変わらずの扱い。これでは会社を辞めたくなるのも無理はない。
不満の塊だった二人の東宝時代。しかしながら、これらの出演作に光を当ててほしいと願うのは、もしかすると当のご本人たちかもしれない。二人の東宝映画には、実際それだけの魅力が備わっている。
※1 岡田は自著に、高峰秀子や森雅之は「役を演じているのではなく、自分自身を演じていたのだろう」と記している。
※2 のちに岡田は、三船敏郎と『人間の証明』(77)と『制覇』(82)で共演。有馬稲子のほうは、初主演作『ひまわり娘』で共演した三船との再会は果たしていない。
※3 このとき有馬が住んでいたのは砧六丁目。奇しくも成瀬巳喜男邸と早坂文雄邸に挟まれた家だったが、成瀬とは『晩菊』(54)で組んだのみとなる。
※4 のちに二人は吉田喜重『告白的女優論』(71)で共演を果たす。

高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。










