これすなわち、小林信彦が言うところの〝森繁病〟であり、由利徹など極めて少数のコメディアンを除いて大半がこの病に罹った。森繁の『三等重役』や新東宝・日活作品などでのコミカル演技から『夫婦善哉』のシリアス=文芸路線へのチェンジは、単なるコメディアン(それがいかに上質だろうと)から性格俳優への変化を意味し、小林に言わせれば「その後の日本の喜劇人の意識にとんでもない異変を起こさせた」のであった。
植木の強い拒否反応を受け、東宝は主演映画から〝無責任〟の冠を外し、新たに『日本一(の男)』シリーズを立ち上げる。第一作『日本一の色男』(63)では念願の〝二の線〟の歌「ギターは恋人」(植木本人の作)を歌うことを許されるが、世間が望んだのはやはり、底抜けに明るい破天荒なクレージー・ソング。これはレコードでもB面扱いにとどまり、映画館でもほとんど受けていなかった。

続く『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(63)で、一旦植木を〝無責任男〟から卒業させたかに見えた東宝と渡辺プロ。しかし、以降も続々と『無責任』と題した映画を製作して、植木を辟易とさせる。のちに「昭和36年からは、面白くもなんともなくなっちゃった」と語ったほどだから、ひとつのキャラに縛られてしまった苦悩は果たしていかばかりであったろうか。
これはあまり知られていない話。東宝が有吉佐和子の『不信のとき』を映画化しようとした折、主人公にキャスティングされたのは誰あろう、植木等その人だった。ところが、所属する渡辺プロの渡辺晋が「なにやってんだ。おまえは、そんなもんをやるために生きてるんじゃないんだぞ」とこれを許さず、話は頓挫(※1)。植木のシリアス路線は舞台の『王将』(77)までお預けとなり、71年の東宝クレージー映画の終焉以降、〈無責任男としての植木等〉はしばし、なりを潜めることとなる。














