そんな植木が再び脚光を浴びたのが、80年代初頭の「浅草東宝」でのオールナイト興行だった。筆者も度々駆けつけたが、いつしか劇場では拍手が沸き起こるようになる。無責任男が姿を消して、早や10年強。なにゆえの復活劇だったのかは判然としないが、とにもかくにも時代は植木等=無責任男を再び強く求めたのだった。
よもやの復活を果たした植木等は、無責任男を厭わぬ姿勢に転ずる。
舞台なら『シカゴ』(83)、レコードなら『毎度毎度のお誘いに』(83) 、映画なら『逆噴射家族』(84)で、まさに無責任男を蘇らせた植木。その後も小林克也とのライブ・ツアー、黒澤明との奇跡のコラボ作『乱』(85)や木下惠介監督の『新・喜びも悲しみも幾年月』(86)、歌では大瀧詠一作曲(作詞は青島幸男、編曲は萩原哲晶)による『実年行進曲』(86)が話題を呼び、遂には『スーダラ伝説』(90)で紅白歌合戦再出場を果たすなど、まさに完全復活。往年のファンもアッと驚く活躍ぶりを見せる。
それでは、いったいいつ植木は無責任男の呪縛、すなわち森繁病を脱却したのか。
これは直接本人から聞いた話だが、植木は1983年2月に病気で倒れている。前年12月、三波伸介は一人きりで倒れたこともあって不幸にも死去。植木は「家族が傍にいたから助かった」との意識を強くする。そこにオールナイトでの人気が後押しの役目を果たし、植木はここで「生涯無責任男続行」の意志を固めたのではないか――、筆者は勝手にそう推測している。
「これでもう、いつ死んでもいい」なる言葉を残したのは「植木等 ザ・コンサート」(91)の楽屋でのこと。この場に谷啓さんや大瀧詠一さんと同席したことは、〈子供時代を植木等で明るく楽しく過ごした〉筆者にとって、まさに人生最高の瞬間であった。ちなみに、同年発行の雑誌「合点だい!」(CBSソニー出版)で植木は、無責任男について「僕が生きている限りは、やらなきゃいけない使命」と言明している。














