東宝映画スタアパレード

第19回『東宝映画スタア☆パレード』三國連太郎 ひたすらオカマ・キャラに執着した東宝時代

今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。

 

 三國連太郎(かつての表記は三国連太郎)を東宝の俳優と感じる人はあまりいらっしゃらないだろう。しかし、いっとき彼もれっきとした東宝専属俳優であった。

 
 1950年12月、「スター募集」に他薦され、小林正樹の声がけで松竹の研究生となった三國。木下惠介が準備していた『善魔』(51)に、当時木下の助監督だった松山善三の推薦により、役名と同じ芸名で映画デビュー。その後も木下に気に入られた三國は(なにせイイ男である!)、続けて三作に出演。〝有望新人スター〟としての期待に応え、ブルーリボン新人賞を受ける。


 翌52年には渋谷実監督『本日休診』で、重要な役割を担う「勇作」役に抜擢(※1)。この作品の撮影中に三國は、前年『稲妻草紙』で仕事を共にした稲垣浩監督の東宝作品『戦国無頼』(脚本は黒澤明)への出演を熱望し、すったもんだの挙句、争奪戦に勝利した東宝と「年4本」の出演契約を結ぶ(※2)。
 結果として53年の出演作は成瀬巳喜男監督の『夫婦』、『妻』など12本に及び、俳優として一番多く映画に出た年となる。

 
 三船敏郎の共演者として『戦国無頼』に出演した三國。ライバル心を抱いたものか、三船を「汚い人だと思いました」と評しただけでなく、「セリフを一字一句間違えず、一挙手一投足、そして歩数まで監督(黒澤)の指示に従う」三船を、「役者としての自己主張が乏しい」と断じている(※3)。


 三國が三船とは真逆の、自己主張の塊のような役者であることは、のちに『夜の鼓』(58/今井正監督)で、リハーサル時から妻役の有馬稲子の顔を本気で殴り続けた(撮影は有馬の顔の腫れが引くまで中断となった)エピソードや、村山新治監督の「三國はエゴイストもいいとこ。意外に自分をよく見せたい……、あれは旅回りの座長芝居だよ、なんて言う人もいた」との発言からも明らか。毀誉褒貶の激しさは、のちのちまで変わらぬ三國の特性となる。


 稲垣浩監督『上海の女』(52)のロケ中に、「僕は精神分裂症」と言い出した三國。東宝では「実りある仕事があまりできない」と悟ったものか、54年6月、〝新生〟日活『泥だらけの青春』(菅井一郎第一回監督作品)に出ようとして反対されると、「五社協定違反第一号」となってまでも出演を強行する。ここからも〝帰属意識〟などかけらも持たない、自由奔放な一匹狼を志向していたことが窺える。


 結局、池部良が形容した「サラーマン会社」の東宝には、二年数ヵ月の在籍で終わった三國。
 ただ、『愛人』(53/市川崑監督)で共演した岡田茉莉子は、監督に「抵抗」して、わざとNGを連発する三國を「はた迷惑な役者根性」と評しながらも、「私はなぜか憎めなかった」と擁護している。日活へと移り去る三國を「勇気がある人」と持ち上げてもいるのは、岡田自ら東宝に不満を覚えていたからであろう。

Page: 1 2 3

comoleva