鍛金家・奥山峰石(本名・喜蔵)さんは、58歳の時に人間国宝(文化財保護法に基づき文部科学大臣が指定した重要無形文化財保持者)に認定された。当時「鍛金」の世界では最年少の認定だった。鍛金とは金属の一枚板を木槌や金槌で何百回、何千回と数えきれないほど叩き込んで形状を調え、自らデザインした文様を打ち込んで、茶道具、花瓶、酒器などがつくられる。奥山さんは米寿を迎えた現在も新しい作品づくりに挑戦する現役真っ只中である。「またお茶のみにきてください」と玄関の外まで見送ってくださった奥山さん。謙虚で優しいその人柄が作品にもあらわれている。「一代一職」を貫き、粘り強く決してあきらめない奥山さんは、人間国宝認定30年を迎えた。生まれ故郷の山形県新庄市からリレーされ、北区飛鳥山博物館で「鍛金家・奥山峰石 米寿記念展 人間国宝認定30年の軌跡」が間もなく始まる。
─鍛金の仕事を始めたきっかけからお伺いします。
奥 山 昭和12年、山形県新庄市に編入された小さな村で生まれました。小学校一年生の時に父が亡くなり、6人姉弟の長男の私は、早く自立し働かなければなりませんでした。中学卒業後上京し、親戚の紹介で勤めを始めたのが銀製品をつくる会社だったのです。ですから、鍛金が家業だったわけでも、好きで始めた仕事だったわけでもありません。まもなく笠原銀器製作所に移り、鍛金家・笠原宗峰から鍛金を学びながら洋食器などを作る職人になりました。
─どんな毎日を送られていましたか。
奥 山 朝早くから夜遅くまで、文字通り職人修行の毎日です。夜学に通いたかったのですが、そんな時間は全くありません。一生下働きは嫌だなと思いながら3年、18歳のころ陶芸家の板谷波山が、「自分はこの仕事で一生生きていくんだ。だから一生懸命やるんだ」という記事に触発されました。自分もこの仕事で誰にも負けない、一番になるんだという気持ちが芽生えたのです。結婚を機に27歳の時独立しましたが女房には本当に助けられました。手際が良くよく働き仕事ができる。しまいには自分でも作品を制作するようになっていました。スポーツの優勝カップや指輪、たくさんの注文に納期を間に合わせるため寝る間を惜しんで頑張りました。ところが、昭和48年のオイルショックで注文が激減してしまったのです。
奥山さんは再三「女房に助けられた、本当に苦労をかけた」と口にした。夫唱婦随の金工作業がつづいた。そんな折…