大相撲は、〝国技〟と呼ばれるように、単なるスポーツ、格闘技ではなく1500年の歴史をもつ我が国固有の伝統文化の一つである。大相撲の発展のため力士や関係者ばかりではなく、大相撲をこよなく愛し、長年支えてきた〈維持員〉の尽力があったからこそ、日本の国技として守られてきた、といえる。土俵に一番近い砂かぶり(溜席)で力士たちの体当たりの相撲に立ち合い見守り、土俵外でも力士と交流し、大相撲を支えるのが「日本大相撲溜会」である。東京の「溜会」会長を2023年から務める山本道廣さんに、大相撲愛、「溜会」の果たす役目などをお聞きした。
「溜会」の「溜」(たまり)の語源は江戸時代からで、大勢の力士が浴衣姿で土俵下にたむろしていたことから、〝たまり〟というようになったと言われています。土俵下の東西、向正面の各75席をあわせて300席が「維持員席」になっていますが、東西の一列目、二列目と正面をあわせた69席が「溜会」の席になっています。69席というのは、第35代横綱の双葉山の69連勝を記念した数字です。取組中に砂が飛んできて、見物客が砂をかぶることから、〝砂かぶり席〟とも言われています。
私が大相撲観戦を体験したのは中学生のときで、相撲好きの祖母に連れられ、初めて国技館に行きました。ちょうど昭和28年(1953)夏場所からテレビ放送が開始された時期で、第44代横綱の栃錦と第45代横綱の若乃花が「技の栃錦、力の若乃花」と並び称され、相撲人気が全国に拡がっていく時代でした。
その後、両国国技館は会社からも近く機会があれば観戦に行っていましたが、40歳の時に社業である不動産・宅建業界の先輩に勧められ、三保ケ関部屋(元大関増位山)の後援会に入会し、年3回の東京場所を観戦していました。当時は本業の不動産鑑定士の仕事や会社経営で15日間興行のうち1日しか行けませんでしたが。
しかし相撲好きが高じて45歳のときに「溜会」に入会申し込みをしました。当然推薦人になってくれる人もいましたが、当時は入会までに10年は待たなければならないと言われていました。一般的に会社員の定年と重なる55歳で入会できればと考えていましたが、私は50歳で「溜会」の会員になることができました。爾来37年砂かぶりに座りつづけましたが、一昨年に会長を拝命しました。東京の3場所は、土俵下に座り込んで、維持会員として取組みに立ち合うことになったのです。
「溜会」の会員には、力士の技能を審査する「立会人」を務める役割があります。さらにその場所の殊勲賞、敢闘賞、技能賞を決める日本相撲協会の三賞選考委員会の委員も務めています。また千秋楽、幕内の取組みに入る前に、優勝者が決まった十両、幕下、三段目、序二段、序の口までの各段力士に対して、相撲協会の表彰に続いて、溜会からも表彰します。会長の私が土俵に上がり表彰状を贈呈するお役目があるのです。ですから指定された履物をはいて、土俵に上がるときに転ばないようにと、人知れずウォーキングをして体力づくりに励んでいます(笑)。
土俵下から相撲を観戦していて、おもしろいのは、十両前の幕下上位の5番勝負です。十両に上れば「関取」になり、待遇に大きな差がありますから、両者が関取に上がるための真っ向勝負、真剣勝負です。ここから這い上がるもの、落ちていくもの、両者の今後の活躍を土俵下でじっくり見ています。