人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

■病床にあってたくましく描いた郵便配達夫

 いったん帰国したとはいえ、彼の心はすぐにパリへいくことに決まっていた。東京の下落合にアトリエを構えたものの、家の近くの駅のガードをみると、その向こう側にパリがあるように考えてしまう。ガードの煉瓦も、パリのようなのだ。

《ガード風景》1926-27年 個人蔵
(本作品は新橋で描かれたもの。ガードをくぐった先の四角い開口部からは、向こう側にある町の賑わいが小さく見える。煉瓦と石でできたガード、その下を通る道から先の道を見通す視点は、パリの《ロカション・ド・ヴォワチュール》の風景に思いを馳せているようだ)
《鯖》1926年頃 新宿区立新宿歴史博物館
(雨で写生に出られない時など、佐伯はアトリエで静物画を描いた。手がけたのは、絵を描くための身近な道具や、花瓶の花、食卓に寄せられた食材だった。まじかで観察する静物画の制作は、佐伯にとって一息つける時間だったのかもしれない)

 帰国の翌年の1927年の夏には、もう二度目のパリに出発していた。途中のハルビン迄、兄の祐正が見送った。二度のパリの旅費は、祐正がだした。寺の住職を務める祐正は、病弱な弟を心配していた。しかし、よもやそれから一年後の夏になくなってしまうとは、思ってもいなかったことだろう。

《モランの寺》1928年 東京国立近代美術館
(モランは、パリから東へ約40キロ、電車で1時間ほどの距離にある。セーヌ河支流のグラン・モラン河沿いにあり、小さな集落の周りには丘が広がる美しい農村である。佐伯の風景画に新しい方向性をもたらした)

 1928年の早春、祐三はパリ郊外の「ヴィリエ=シュル=モラン」でカンヴァスに向かっていた。モラン村での彼は、うそ寒い悪天候の中でも夢中で絵を描き続けたという。パリに戻ってからも、雨が続いていた。「郵便配達夫」は、彼が風邪をこじらせていたときに家を訪れた配達夫にモデルになって貰った。実にたくましく堂々としていて、病床の彼には守護神のようにみえた。敬愛する兄の祐正にも、重なって感じられたことだろう。このころ、愛娘の彌智子も元気をなくしていた。父親の死の二週間後、彼女も父の許へととびたった。

《郵便配達夫》1928年 大阪中之島美術館
(本作とともにロシアの亡命貴族の娘をモデルにした《ロシアの少女》と、わずかに体力が回復した時に戸外へ出て描いた《黄色いレストラン》と《扉》の2つの扉の絵が残されている。時を近くして描かれた佐伯の絶筆といえる作品の一つ)

 ♢  ♢  ♢

 東京ステーションギャラリーの会場から、私はなかなか立ち去ることができなかった。かつて母がいった通り、パリを描いた絵からはパリの空気が息づいていた。これ迄に4回出かけたパリと、佐伯祐三のパリとは違っているところもあった。絵よりも、もっと明るいパリもある。しかしそのような本物のパリを乗り越えて、絵の中のパリは本物のパリよりもパリらしく輝いてみえた。ついに一度もパリへいくことなく空の上へいった母も、この展覧会場にいるような心地がした。


太田 治子(おおた はるこ)
神奈川県小田原市生まれ。明治学院大学文学部卒業。76~ 79年NHK「日曜美術館」の初代司会アシスタントを務める。86年『心映えの記』で第一回坪田譲治文学賞を受賞。著書に『夢さめみれば一日本近代洋画の父・浅井忠』(朝日新聞出版)、『湘南幻想美術館~湘南の名画から紡ぐストーリー』(かまくら春秋社)他多数。

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