人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

30歳という若さで夭逝した佐伯祐三の画業を展覧する「佐伯祐三─自画像としての風景」が東京ステーションギャラリーで1月21日(土)から開催されている(4月15日(土)から大阪中之島美術館へと巡回)。東京では18年ぶりの回顧展だが、生誕125年を経てなお人々は彼の躍動感のある筆致で描かれた作品群に魂を揺さぶられてきた。かつてNHK「日曜美術館」の初代アシスタントである、作家の太田治子さんもまた、母から教えられた佐伯祐三に深く傾倒し美術世界に向き合うことになったという…。本展を観賞後、佐伯祐三を想う一文を寄せていただいた。

《自画像》1919年頃 東京都現代美術館

わが母とともに、祐三のパリへ
『佐伯祐三─自画像としての風景』に寄せて

文=太田 治子

■祐三のパリの〝力〟に母は魅せられた

 洋画家・佐伯祐三の名前を、私は中学生のころ母から教えられた。

「佐伯祐三は、30歳という若さでなくなってしまったの。彼の絵のパリにはたちのころから、あこがれていたの」

 そう話す母の顔は、初めて佐伯祐三の絵に出合った娘時代に戻ったように輝いてみえた。母は話しながらいつも決まって、古い絵はがきを何点かみせてくれるのだった。パリの建物を描いた風景画である。中学生の私には、どれも黒々した絵にみえた。絵の中の木も道を歩く人も、それは細くて黒かった。クギのような感じがした。

「パリは、こんなに暗いところなのかしら?」

 私がそう聞くと、

「この絵のパリは、佐伯さんの心のパリなのよ」

 母は、むつかしいことをいった。

「実際のパリは、もっと明るいのかもしれない。いつの日か、治子とパリへいきたい」

 そうもいうのだった。

 母のパリへのあこがれは、佐伯祐三の回顧展をみたときからいよいよと高まったという。佐伯がなくなった年から7年後の1935年に、銀座で「佐伯祐三回顧展」が開かれた。母は、その時初めて佐伯の絵をみたという。

「どの絵にも、ぐいぐいと惹かれたの。パリが生きていると思った。絵の中の裏通りを、本当に歩いているような気がしたわ」

 二年後には、日中戦争が始まろうとしているころのことである。何やら重苦しい空気が日本全体にたちこめていた中、佐伯のパリの絵にはそれを吹き払うような力強さがあった。当時そう感じた若者は多かった筈と、母は話した。

《ガス灯と広告》1927年 東京国立近代美術館
(佐伯は一時帰国をはさみ、1927年8月に再びパリへ。その筆は迷うことなくパリの街を捉える。汚れたパリの壁や広告の文字を描いた。佐伯の2次パリ時代を代表する1点。乱雑にポスターが貼り重ねられた街の片隅をとらえた。力強い縦の線が印象的だ)

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