手塚治虫をはじめ、漫画界の多くのパイオニアがそうであったように、松本零士もまた熱烈なクラシック音楽ファンとして知られた。いくつものメディアで述べているように、戦後まもない混沌とする福岡・小倉の町でヨシフ・イヴァノヴィッチの名盤「ドナウ河のさざ波」に出会って以降、チャイコフスキー、ベートーヴェンと愛しつづけ、とりわけリヒャルト・ワーグナーに心酔してやまぬワグネリアンであり、その生涯を『音楽の革命児ワーグナー』(音楽之友社・1982年など)として描いている。さらに、ワーグナーが四半世紀をかけて完成させたオペラを原案に構想され、未完となるのだが『ニーベルングの指環』は、断続的に描き継がれ、インターネットの黎明期にWebマガジンに発表の場を移すなど、意欲と挑戦に満ちた長編となった。松本零士ファンだけでなく、ワグネリアン、クラシック愛好家に熱烈に支持される名作である。この2025年6月より小学館クリエイティブから「完全版」として単行本化されることが発表された。
松本零士は、戦地で若くして死した実在の音楽家をモチーフにしていると思われ、読む者へ生と死の究極を投げかける優れた短編「戦場交響曲」(『漫画家たちの戦争 戦場の現実と正体』金の星社・2013年などに所収)も残している。
星野鉄郎を連想させる主人公・森山進は、戦地で知り合った砂津川良助が自らの作曲した4つの楽章からなる交響曲「戦場」を、「突撃ラッパ」ひとつで奏でるひとときに胸を打たれる。
〈男の魂が、歯をくいしばって泣いているような曲だった…無念の涙を流しているような曲だった…〉
砂津川は、大型手榴弾の激しい爆音を身のそばで受けた衝撃により、一瞬にして聴力をほとんど失う。
「だれがこんな戦争 はじめやがったんだ!!」と猛った砂津川は、戦闘の果てに、なによりも大切にしている自作の楽譜まで見失う。絶望の淵に立たされながら、楽譜を取り戻すために、砲弾の飛び交うなか、敵方へ歩き始め、行方がわからなくなる。
森山進は、〈おくびょう〉で〈足手まといになる〉と見下していた砂津川が〈信じるもののためには、命をかけてもがんばる男〉であると思い至り、〈かならずもどってこいよな!!〉とつぶやいて涙する。
生命の尊さと強さ、はかなさを、そして人はなにゆえ正義や勇気を掲げ、ときに仲間の反対にあっても信念を貫こうとするのかを、読者に突きつける。
明日、そして未来へといざなう圧巻たる画業の歩みを目の前にして、私たちはいずこへたどりゆくことができるであろう。
樽谷哲也(たるや てつや)
ノンフィクション作家。1967年、東京都生まれ。出版社で雑誌編集者を7年半余りしたのち、98年からフリージャーナリストとなる。総合月刊誌『文藝春秋』にて「ニッポンの社長」および「ニッポンの一〇〇年企業」を連載、また流通情報誌『ダイヤモンド・チェーンストア』では「革命一代 評伝・渥美俊一」をじつに13年半、300回にわたって長期連載した。そのほか『プレジデント』で企業取材、『Sports Graphic Number』ほかで人物評伝、ルポルタージュなどを執筆する。著書に、14の企業と経営者の歩みをたどった『逆境経営』(文春新書)がある。