兵庫県明石市で生まれた江見絹子(1923~2015)は、日本人女性として初めて、ヴェネチア・ビエンナーレ(第31回・1962年)に出品した画家である。油絵は男のするものとされていた時代、大反対する親を説き伏せ、油絵の道へ進んだ。30代前半アメリカ、フランスへ渡り、パリで個展も開催した。娘のアンナさんが誕生したのは33歳の時である。江見の画風は、変貌を続け5つの時期に分かれる。売るための絵は描かず、本当に自分が描きたいものだけを描いた。数々の賞を受賞し名を成すと、神奈川県女流美術家協会設立の発起人となり、長年にわたって代表を務め、美術の普及や後進の指導に尽力した。〈神奈川県立近代美術館 葉山〉で、「コレクション展 没後10年 江見絹子—1962年のヴェネチア・ビエンナーレ出品作品を中心に—」が開催される。型破りな母親、絹子さんのことを執筆していただいた。
江見絹子は一筋な人だった。幼児の頃、何が理由か、泣き出したことがあった。
「絹子!」
母に呼ばれると、「何や?」と返事をしてから、改めて泣き続けたという。いったん何かを始めると、しつこいのである。
女学校で始めた油絵を、卒業後、先生に付いて習うつもりになった。
「お母ちゃん、絵、習わせて」
母の答えは否である。遠い親戚に売れない日本画家がいて、貧乏なために冬でも一重の着物でうろついていたという。おまけに日本画ならまだしも、洋画は得体の知れないエカキの所業、ふつうの家の娘の習い事ではない。
絹子は諦めなかった。「お母ちゃん、習わせて」と連日母に迫っては、一言の下に却下されていた。言い続けること3ヶ月、そのしつこさに母親はついに頭に来た。
「勝手にし!」
その意味するところは「勝手に言っていなさい、駄目です」だった。しかし絹子は額面通り「勝手にしろ」と受け取り、さっそく先生を探しだして、既成事実を作ってしまった。油絵道具一式を風呂敷で包んで通ったのは、ご近所の目を気にしてのことである。こうして画家、江見絹子は最初の一歩を踏み出した。10年後には新進気鋭の若手として台頭する。