ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

昭和26年、新藤と乙羽が初めて監督と女優として撮った『愛妻物語』。自らの下積み時代を描いたオリジナル脚本を映画化した、新藤の記念すべき第1回監督作品。新藤の役を演じたのは宇野重吉。

 1994年乙羽さんの遺作となった『午後の遺言状』の撮影に参加した。 撮影に先立って、乙羽さんのために半日かけてテスト撮影が行われた。僕は乙羽さんの前でカチンコを叩いた。乙羽さんはにこやかな顔でセリフを言った。テストしたのは『午後の遺言状』ではなく『三文役者』という新藤さんの次の作品となるものだった。 50 年近い映画作りの仲間、三文役者殿山泰司を描くもので、乙羽さんはタイチャン相手に自身の役を演じる。久しぶりの撮影に少し疲れたようだが、終わる頃は実に嬉しそうで気力みなぎる顔になっていた。

 『午後の遺言状』の主な舞台は信州蓼科高原で、新藤さんの小さな山荘を撮影に使った。杉村春子演じる新劇女優蓉子が避暑に訪れる。その面倒を見る農家の管理人豊子を乙羽が演じた。二 人のベテランの掛け合いは軽妙で、すこぶる面白かった。豊子は蓉子の夫を愛し娘を産んだと告白する。

豊子「おら、罪の意識ねえだよ」

蓉子「あんた、顔に似合わず図太いのね、呆れたわ、不倫の罪があるでしょう」

豊子「愛し合ったのだ」

蓉子「えッ、(芝居のようにあざ笑う)へッ、芝居のセリフみたいなこと言わないでよ。歯が浮くわ」

豊子「(むきになって)笑わないでくださいよ。おら、真剣だったんだ」

「愛し合ったのだ」「真剣だったんだ」は新藤と乙羽の実際の不倫を思い起こさせる。喜劇的で明るいトーンは二人が長い道のりの果てに辿り着いた突き抜けたものを感じさせる。

昭和26年、新藤と乙羽が出会った頃の一枚。乙羽は〝百万ドルのえくぼ〟がチャーミングな大映の人気女優だった。乙羽のデビュー映画『處女峰』(木村恵吾監督)の脚本は新藤だった。

 新藤と乙羽が出会ったのは新藤が自身の体験をシナリオに書き初めて監督した『愛妻物語』(1951)である。アジア太平洋戦争中、脚本家として生きていけるかどうか瀬戸際に立った新藤に日々生きる力をくれた最初の妻孝子さんへの追悼だった。師事した巨匠溝口健二監督に書いたシナリオが「これはシナリオではありません。単なるストーリーです」と一刀両断にされる。目の前が真っ暗になった新藤に孝子さんは「もう一度書けばいいじゃないの」とこともなげに言う。これで救われた。その孝子さんを肺結核で失った。


 戦後松竹でシナリオライターとして華々しく活躍し始めた新藤だったが、「妻へのレクイエムをしなければ私の戦後が始まらない」と自分で監督することにした。


 一方の乙羽は〝百万ドルのえくぼ〟のキャッチフレーズで売り出されたスター。宝塚の娘役から映画の世界へ。入社した大映では踊り子やお嬢様といった役柄ばかりで演技も思うようにいかず不満を募らせ模索していた。


 新藤が大映で『愛妻物語』を監督できることになった時、難航していた妻役に乙羽が自ら志願してきた。大映の首脳陣は大反対。大枚はたいた清純派スターに人妻の役をさせるなんてトンデモない。だが乙羽は諦めなかった。粘りに粘った末、出演を勝ちとる。

 衣裳合わせで乙羽は孝子さんに扮装した。いつも孝子さんが身に着けていた白いブラウスと紺のスカート。新藤は「ほんとうに孝子さん、そっくり」だったという。


 新藤が初めてする演出は役の気持を懸命に伝えることに専心した。「乙羽さんは非常に感受性があった」と新藤はいう。二人の思いが結実して『愛妻物語』が生まれた。

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