ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

昭和53 年10 月1 日、銀座千疋屋で結婚を祝う会が、近代映画協会のメンバーによって開かれた。「あなたの奥さんになるつもりはない、それでは奥さんにすまないから、わたしは一生日陰の身でいい、その覚悟をきめています」と言っていた乙羽だが、結婚が決まったときには新藤が驚くほどうれしがったという。これで銀座を一緒に散歩できるし映画も肩を並べて見ることができると。

 新藤さんが話してくれた「一本の仕事の始まりというのは生命の誕生だと思う。仕事が進むうちにその命はどんどん成長し膨らんでいく。そのなかには喜びも悲しみもある。そうしながら、ほんとうに狂いもなく最後の日を迎える。そのとき生命の終わりが近づいたような気がする。しかしここで消えるけれども命の結晶としての作品は残っていく」


 乙羽さんと新藤さんは「天」へ旅だった。
 しかし、二人が生み出した「命」は残った。その「命」はいまも輝きを放ち続けている。

平成23年公開の『一枚のハガキ』を撮影中の新藤監督。この映画が新藤の遺作となった。新藤は「多くの傑作映画を世に送り出し、日本最高齢現役監督として映画『一枚のハガキ』を完成させた」として菊池寛賞を受賞。作品はキネマ旬報ベストテン1 位に輝いた。


映画監督、脚本家の新藤兼人は明治45 年(1912)広島県生まれ。
女優・乙羽信子は大正13 年(1924)鳥取県生まれ。

昭和25 年に新藤は独立プロ・近代映画協会を創設。二人が出会った当時、乙羽は〝百万ドルのえくぼ〟をキャッチフレーズとする大映の人気スターだったが、昭和26 年新藤宿願の監督デビュー作『愛妻物語』に、乙羽はどうしても妻の役をやりたいと願い出、出演が実現した。昭和27 年新藤監督、乙羽主演の『原爆の子』の舞台挨拶のとき、乙羽は近代映画協会に参加することを決意する。ここから、42 年間にわたり、共に映画人生を歩むことになった。以降、乙羽はすべての新藤監督作品に出演している。2 人の映画には『縮図』『女の一生』『どぶ』『狼』『銀心中』『流離の岸』『女優』『悲しみは女だけに』『裸の島』(モスクワ国際映画祭グランプリ他各国映画賞受賞)『人間』(文部省芸術祭文部大臣賞)『母』(毎日芸術賞)『鬼婆』『悪党』『本能』『藪の中の黒猫』『裸の十九才』(モスクワ国際映画祭金賞)『心』『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(キネマ旬報ベストテン1 位、監督賞他受賞多数)『竹山ひとり旅』(モスクワ国際映画祭監督賞)『絞殺』(乙羽はヴェネツィア国際映画祭主演女優賞)『午後の遺言状』(キネマ旬報ベストテン1 位、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞などで多数の賞を受賞)など映画史に刻まれる多数の作品がある。
昭和53 年1月18 日に結婚届を提出。平成6 年(1994)乙羽70 歳で死去、平成24 年(2012)新藤100 歳で死去。

やまもと やすひろ
1959年福岡県飯塚市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。松竹シナリオ研究所基礎科を経て松竹テレビ部にて助監督見習い開始。以降フリーとしてテレビ映画の演出部を経て、近代映画協会を中心にテレビ、ビデオなどの演出をするようになる。新藤兼人作品には『濹東奇譚』(1992)以降、遺作となった『一枚のハガキ』(2011)まで全ての映画、テレビ作品に参加。 20年ほど師事することになった。NHKBS「究極のラストカットを求めて」(2002)で新藤の半生を追ったドキュメンタリー を演出。新藤の戦争体験をドキュメンタリードラマにした映画 『陸に上った軍艦』(2007)を監督。シナリオ「ヤマの記憶」が第4回日本シナリオ大賞佳作。

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