私の生前整理

〝語り部〟の責務

文=藤原作弥

 

九死に一生を得た満蒙の体験

 

私がジャーナリストの道を歩んだのは、祖父や父の放浪癖と好奇心のDNA を受け継いだからだと思う。

父は言語民族学者で、ウラルアルタイ 語族のシャーマン(霊媒)の言語文化を 調査・研究するフィールドワーカーだった。まず、仙台を皮切りに、日本の東北 各地を巡り、恐山の巫女(みこ)、津軽の瞽女(ごぜ)、 出羽三山の山伏などの呪文、経文、祭文などの伝承歌を採集した。その後、アルタイ語の北朝鮮(清津)に渡り、さらにモンゴル族のシャーマン言語文化を探訪 するため、満蒙にまで足を延ばした。
 
ソ連国境の僻地、旧満州・興安街 (現・中国内モンゴル自治区ウランホ市)に住んだのは国民学校(小学校)2、3年の時期だった。牧歌的な草原で羊の群を追いかけて遊んだのも束の間、 1945年8月9日、ソ連戦車軍団が 突然侵攻してきた。翌 10 日私たち一家は辛うじて現地を脱出、九死に一生を得て、南満州の港町・安東(現・丹東)まで辿りついた。そして翌 46 年秋、日本に引き揚げるまでの約一年半、同地で厳しい難民生活を送ったのである。

父は古本屋の雇われ番頭、母は服地店の売り子、私は闇市でタバコ売りをしな がら、口に糊した。現在、世界中で難民問題が深刻化しているが、当時、満 10 歳に満たない私が垣間見たのは、スリ、強盗などの犯罪、飢餓、伝染病などの貧困、 麻薬、売春などの堕落……。私は旧約聖 書の「ソドムとゴモラ」のような悪徳世界で大人になるための通過儀礼を受けたのだった。

(続きはVol.31をご覧ください)

ふじわらさくや
エッセイスト、ノンフィクション作家。1937年宮城県仙台市生まれ。62年東京外国語大学フランス語科卒業、 時事通信社入社。経済部記者として大蔵省担当、オタワ、 ワシントン特派員、日本銀行、経団連、外務省などの担当を経て、解説委員、解説委員長を歴任。98年~03 年日本銀行副総裁に就任。82年『聖母病院の友人たち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。著書に『李香蘭 私の半生』山口淑子との共著、『満州の風』『素顔の日銀副総裁日記』など多数。

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