私の生前整理

七つ星の行方

文=池内 紀

 

五十五歳のときに勤めをやめた。停年を待たず、自分で区切りをつけた。それまでが前半とすると、つぎは人生の後半部。好きなことだけをして生きようと心に決めた。

十年間は、いろいろなことをした。よく動いた。日本列島の北から南まで、目星をつけていた山に登った。「カブキ学校一年生」と称して、毎月のように歌舞伎座と国立劇場に通っていた。イラストを描きためた。季節ごとに少し長めのヨーロッパ旅行をした。あとで気がついたが、心の生前整理をしていたわけだ。 思いのこすことがないように。

後半部の第一期が終わって六十五歳。 目立って体力に変化が生じた。一番大き な変化を、自分では「部品の劣化」と名づけていた。人体の部品にあたるもの、髪、目、鼻、歯、皮膚、性器などに劣化ないし故障が生じてきた。髪が薄くなる。小さな字が読めない。ときならぬ時にハナが出る。歯が欠けた。皮膚にシミができた。 性器がだらしなくしなだれている……。

第二期の十年を二つに割って最初の五年は、二人の息子がそれぞれ住居を手に入れるにあたり、助太刀をした。生前贈与の税法を利用した。貯金通帳は軽く なったが、そのかわり遺産の心配もなくなった。のこり分は当の夫婦で使いきればいい。もし残れば、息子たちへのボー ナスになる。

(‥‥‥続きはVol.33をご覧ください)

いけうち おさむ

1940年兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者・エッセイスト。主な著書に『ゲーテさんこんばんは』(桑原武夫学芸賞)、『海山のあいだ』(講談社エッセイ賞)、『二列目の人生』、『亡き人へのレクイエム』、『恩地孝四郎』(読売文学賞)など。編注に森鴎外『椋鳥通信』(上・中・下)、訳書に『カフカ小説全集』(日本翻訳文化賞)、『ファウスト』(毎日出版文化賞)、アメリー『罪と罰の彼岸』など。大好きな山や町歩き、自然にまつわる本も、『日本の森を歩く』『森の紳士録』『ニッポン周遊記』など多数。

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