サンモニで凛々しい田中優子さんの日常化された「生前整理」

「生前整理」には覚悟がいる

文=田中優子
法政大学第19代総長、江戸文化研究者、エッセイスト

私の生前整理 2017年7月1日号より

 生前整理を最初におこなったのは四十九歳の時だった。首にできた腫れ物が気になって健康診断時に医者に言うと、炎症が見られないので悪性かも知れないと、大きな病院での精密検査を勧められた。検査をすると腫れ物は首のリンパにできているだけでなく、顔の内部にも複数見られるという。「もしかしたら全身に」と、検査入院となった。

 これがただの検査ではない。腫れ物を取り出して細胞を精査しないと分からないという。首からそれを取り出す手術は危険が伴うが、それを承知の上で手術を承諾したという文書に署名もさせられた。そこで私は手術の前に、生前整理をおこなったのである。大学から借りている図書類は全て返却し、研究費を支給されている研究途上の報告書は後を頼み、持ち物やデータは精査して断捨離し、万が一の場合の仕事の連絡先一覧を作り、必要なデータにアクセスする方法を告げ、そして遺言も書いた。これらの作業をしているあいだに考えたのは、生き残る人が困らないように、という一点のみであった。これをきっかけに、弁護士の友人に遺言状を預けるようになり、海外に出るときに書き換えが必要な状況なら、自筆で書いてともかく投函するようになった。生前整理が日常化されたのである。

トップに立つということは…

 次に生前整理が必要になったのは、六十二歳で総長に就任した時だった。総長という職務は自分の教育、研究、執筆や講演活動を大事にすればよい、というものではなく、身を呈して公共に尽くす職務である。私立とはいえ大学は公器だ。健康でなくては健全な判断はできないが、だからといって体調や気分や都合や快不快で行動を選んではならない。自分のことは脇に置き、総長業務用の便益を必要最小限にとどめる。無理は当たり前。その結果急逝しても仕方がない。小さな例で言えば、総長室に入ったとき研究室を空けた。実際に研究室にいる時間がなくなったのに、大切な大学の空間を所有し続けるわけにはいかない。必要な方に使っていただく方がよい。しかし空けるためには本や資料を処分しなければならない。自宅にいられる時間も少ないので移しても意味がないが、移動時間が多くなり、移動途中のインターネット環境で使う必要がある。そこで研究室と自宅にある本と資料は「処分」「デジタル化」「自宅据置」に分類し、いよいよ研究の断捨離を始めたのである。

 これは一種の生前整理である。死ぬまでの時間とプロセスを想定し、総長として必要なもの、研究者や執筆者として最低限必要なものを選ぶ。さらに、急死したときに迷惑にならないよう、遺言を更新しエンディングノートも作った。遺言やエンディングノートは死ぬ自分のためにあるのではなく、生きる者の時間やお金を大切にするためにある。ひとりの人間が世の中から完全に消えるまでには葬式を含めた厄介な手続きがあるが、その手間を省いて邪魔をしないようにしたいのだ。
 書籍の生前整理が最も難しかったが、それは残りの生涯で何を大切にするかをみつめる良い機会となった。これからの日々は、ほんとうに必要なことだけをおこなっていく生前整理の日々にしたい。

たなか ゆうこ
法政大学第19代総長、江戸文化研究者、エッセイスト。神奈川県生まれ。『江戸の想像力』で芸術選奨文部大臣新人賞、『江戸百夢』で芸術選奨文部科学大臣賞・サントリー学芸賞。その他多数の著書がある。2005年度紫綬褒章。近著に『カムイ伝講義』『未来のための江戸学』『布のちから』『グローバリゼーションの中の江戸』『鄙への想い』『自由という広場-法政大学に集った人々-』など。日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、サントリー芸術財団理事、大学設置・学校法人審議会特別委員、TBS「サンデーモーニング」のコメンテーターも務める。2021年3月法政大学総長を退任し、現在同大名誉教授。

2017年7月1日 Vol.32より
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