21.07.30 update

「生前整理」には覚悟がいる

文=田中優子
法政大学第19代総長、江戸文化研究者、エッセイスト

私の生前整理 2017年7月1日号より

 生前整理を最初におこなったのは四十九歳の時だった。首にできた腫れ物が気になって健康診断時に医者に言うと、炎症が見られないので悪性かも知れないと、大きな病院での精密検査を勧められた。検査をすると腫れ物は首のリンパにできているだけでなく、顔の内部にも複数見られるという。「もしかしたら全身に」と、検査入院となった。

 これがただの検査ではない。腫れ物を取り出して細胞を精査しないと分からないという。首からそれを取り出す手術は危険が伴うが、それを承知の上で手術を承諾したという文書に署名もさせられた。そこで私は手術の前に、生前整理をおこなったのである。大学から借りている図書類は全て返却し、研究費を支給されている研究途上の報告書は後を頼み、持ち物やデータは精査して断捨離し、万が一の場合の仕事の連絡先一覧を作り、必要なデータにアクセスする方法を告げ、そして遺言も書いた。これらの作業をしているあいだに考えたのは、生き残る人が困らないように、という一点のみであった。これをきっかけに、弁護士の友人に遺言状を預けるようになり、海外に出るときに書き換えが必要な状況なら、自筆で書いてともかく投函するようになった。生前整理が日常化されたのである。

トップに立つということは…

 次に生前整理が必要になったのは、六十二歳で総長に就任した時だった。総長という職務は自分の教育、研究、執筆や講演活動を大事にすればよい、というものではなく、身を呈して公共に尽くす職務である。私立とはいえ大学は公器だ。健康でなくては健全な判断はできないが、だからといって体調や気分や都合や快不快で行動を選んではならない。自分のことは脇に置き、総長業務用の便益を必要最小限にとどめる。無理は当たり前。その結果急逝しても仕方がない。小さな例で言えば、総長室に入ったとき研究室を空けた。実際に研究室にいる時間がなくなったのに、大切な大学の空間を所有し続けるわけにはいかない。必要な方に使っていただく方がよい。しかし空けるためには本や資料を処分しなければならない。自宅にいられる時間も少ないので移しても意味がないが、移動時間が多くなり、移動途中のインターネット環境で使う必要がある。そこで研究室と自宅にある本と資料は「処分」「デジタル化」「自宅据置」に分類し、いよいよ研究の断捨離を始めたのである。

 これは一種の生前整理である。死ぬまでの時間とプロセスを想定し、総長として必要なもの、研究者や執筆者として最低限必要なものを選ぶ。さらに、急死したときに迷惑にならないよう、遺言を更新しエンディングノートも作った。遺言やエンディングノートは死ぬ自分のためにあるのではなく、生きる者の時間やお金を大切にするためにある。ひとりの人間が世の中から完全に消えるまでには葬式を含めた厄介な手続きがあるが、その手間を省いて邪魔をしないようにしたいのだ。
 書籍の生前整理が最も難しかったが、それは残りの生涯で何を大切にするかをみつめる良い機会となった。これからの日々は、ほんとうに必要なことだけをおこなっていく生前整理の日々にしたい。

たなか ゆうこ
法政大学第19代総長、江戸文化研究者、エッセイスト。神奈川県生まれ。『江戸の想像力』で芸術選奨文部大臣新人賞、『江戸百夢』で芸術選奨文部科学大臣賞・サントリー学芸賞。その他多数の著書がある。2005年度紫綬褒章。近著に『カムイ伝講義』『未来のための江戸学』『布のちから』『グローバリゼーションの中の江戸』『鄙への想い』『自由という広場-法政大学に集った人々-』など。日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、サントリー芸術財団理事、大学設置・学校法人審議会特別委員、TBS「サンデーモーニング」のコメンテーターも務める。2021年3月法政大学総長を退任し、現在同大名誉教授。

映画は死なず

新着記事

  • 2024.04.23
    窓枠は世界を広げてくれる

    木々の変化、風景の変化が面白い

  • 2024.04.19
    ゴールデンウイークのお出かけに!麻布台ヒルズギャラ...

    4月27日(土)~5月23日(木)

  • 2024.04.19
    箱根の宿には「おかみ」の行き届いたホスピタリティが...

    杉山留里(箱根おかみの会 会長、「和心亭豊月」女将)

  • 2024.04.19
    国の「重要文化的景観」に選定された<葛飾柴又>の知...

    京成電車下町さんぽ<1>

  • 2024.04.18
    トヨタのマークⅡでドライブしながら何度も聴いた、稲...

    「ハコバン」から28歳でデビュー

  • 2024.04.18
    韓国アイドルグループ「2AM」のジヌンもバスケット...

    4月26日(金)全国公開

  • 2024.04.17
    渡り鳥のように、4箇所をぐるぐる ─萩原 朔美 ...

    第12回 キジュからの現場報告

  • 2024.04.17
    利発で、正義感が強く、潔癖で、ちょっぴり生意気で、...

    昭和30年後半の大映映画の青春スター

  • 2024.04.11
    相模原出身のロックバンド (Alexandros ...

    相模大野駅の列車接近メロディ

  • 2024.04.11
    下町の太陽、庶民派女優といわれながら都会の大人の女...

    150万枚のミリオンセラーを記録

特集 special feature 

わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の  「芸業」

特集 わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の 「芸業...

棟方志功の誤解 文=榎本了壱

VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いなる遺産

特集 VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いな...

「逝ける映画人を偲んで2021-2022」文=米谷紳之介

放浪の画家「山下 清の世界」を今。

特集 放浪の画家「山下 清の世界」を今。

「放浪の虫」の因って来たるところ 文=大竹昭子

「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

特集 「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

「いい顔」と「いい顔」が醸す小津映画の後味 文=米谷紳之介

人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

特集 人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

わが母とともに、祐三のパリへ  文=太田治子

ユーミン、半世紀の音楽旅

特集 ユーミン、半世紀の音楽旅

いつもユーミンが流れていた 文=有吉玉青

没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、展覧会「萩原朔太郎大全」の旅 

特集 没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、...

言葉の素顔とは?「萩原朔太郎大全」の試み。文=萩原朔美

「芸術座」という血統

特集 「芸術座」という血統

シアタークリエへ

喜劇の人 森繁久彌

特集 喜劇の人 森繁久彌

戦後昭和を元気にした<社長シリーズ>と<駅前シリーズ>

映画俳優 三船敏郎

特集 映画俳優 三船敏郎

戦後映画最大のスター〝世界のミフネ〟

「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の流行歌 

昭和歌謡 「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の...

第一弾 天地真理、安達明、久保浩、美樹克彦、あべ静江

故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・木下惠介のこと

特集 故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・...

「つつましく生きる庶民の情感」を映像にした49作品

仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監督の信念

特集 仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監...

「人間の條件」「怪談」「切腹」等全22作の根幹とは

挑戦し続ける劇団四季

特集 挑戦し続ける劇団四季

時代を先取りする日本エンタテインメント界のトップランナー

御存知! 東映時代劇

特集 御存知! 東映時代劇

みんなが拍手を送った勧善懲悪劇 

寅さんがいる風景

特集 寅さんがいる風景

やっぱり庶民のヒーローが懐かしい

アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

特集 アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

60年以上にわたる創造の全貌

東京日本橋浜町 明治座

特集 東京日本橋浜町 明治座

江戸薫る 芝居小屋の風情を今に

「花椿」の贈り物

特集 「花椿」の贈り物

リッチにスマートに、そしてモダンに

俳優たちの聖地「帝国劇場」

特集 俳優たちの聖地「帝国劇場」

演劇史に残る数々の名作生んだ百年のロマン 文=山川静夫

秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

特集 秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

役柄と素顔のはざまで

秋山庄太郎ポートレートの美学

特集 秋山庄太郎ポートレートの美学

美しきをより美しく

久世光彦のテレビ

特集 久世光彦のテレビ

昭和の匂いを愛し、 テレビと遊んだ男

加山雄三80歳、未だ青春

特集 加山雄三80歳、未だ青春

4年前、初めて人生を激白した若大将

昭和は遠くなりにけり

特集 昭和は遠くなりにけり

北島寛の写真で蘇る団塊世代の子どもたち

西城秀樹 青春のアルバム

特集 西城秀樹 青春のアルバム

スタジアムが似合う男とともに過ごした時間

「舟木一夫」という青春

特集 「舟木一夫」という青春

「高校三年生」から 55年目の「大石内蔵助」へ

川喜多長政 &かしこ映画の青春

特集 川喜多長政 &かしこ映画の青春

国際的映画人のたたずまい

ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

特集 ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

監督と女優の二人三脚の映画人生

中原淳一的なる「美」の深遠

特集 中原淳一的なる「美」の深遠

昭和の少女たちを憧れさせた中原淳一の世界

向田邦子の散歩道

特集 向田邦子の散歩道

「昭和の姉」とすごした風景

information »

new ロマンスカーミュージアムが3周年記念イベントを開催!

イベント ロマンスカーミュージアムが3周年記念イベ...

4月10日(水)~5月27日(日)

「箱根スイーツコレクション 2024」開催中 4月22日(月)まで キャンペーンも実施中

箱根 「箱根スイーツコレクション 2024」開...

Instagramをフォローして、素敵な賞品をゲットしよう

あの人この人の、生前整理archives

あの人この人の、生前整理archives
読者の声
Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial
error: Content is protected !!