私の生前整理 2013年10月1日号より
文=玄侑宗久
(作家・僧侶)
想像できない自分の死後のこと
「私の生前整理」というシリーズのようだが、たしかに最近は、生前から死後の希望をノートに書いたり、遺言書を書く人が増えているようだ。
私も職業柄、そのような場面に触れる機会が多いのだが、つくづく思うのは、人間、自分の死後のことは、どんなに想像力が豊かでも自分では冷静に想像できない、ということである。
社長が辞めて別人に変わるだけで、会社の様子が一変することがある。それと同様、あるいはそれ以上に、本人が亡くなるとその周囲の様相は一変するのだが、生前にはその変化の詳細はおろか、変化の方向性さえわからない。どうしても希望的観測が入り込むせいだろうと思う。
その結果、残された遺言が見当違いに思え、ノートに書かれた細かい指示も、単なるワガママのように思えてきたりする。そして「和尚さん、どうしたらいいでしょう」などと遺族が相談してくるのである。
理想を言えば、遺言の内容は、あくまでも生前に自分で努力し、なんとか叶えてしまえばいい。一つずつ叶え、遺言を一項目ずつ消していき、実際に亡くなった際には何もなかった、というのが一番いい。
モノもそうだ。遺産分配に雑多なモノまで含めるよりも、生前に潔くあげてしまうのがいい。檀家さんの一人で、三年着なかった着物は処分する、と決めて周囲にあげていたお婆ちゃんがいたが、それによって死後、家族がどれほど助かったか計り知れない。思いのこもっているであろう品々を、本人以外が処分するのは結構つらいのである。
生前にどうしてもしておきたいこと
モノや思いは残さず、それについては充分語りつつ特定の人々にあげてしまう。そして死後のあれこれは、見当違いな指示をするのではなく、生き残っている人々にお任せしてはどうだろう。
個性が尊重される時代、自分だけの在り方が死後にまで欲求されているように思える。やれお骨は海に撒け、山に撒け、あるいはお墓は要らないなど、そこには、全員が採れる方法を模索するのではなく、「私くらいいいだろう」という浅薄な考えが透けてみえる。しかも自分の死が、死後は自分の問題ではなく、家族や友人たちにとっての長期にわたる切実な問題であることが忘れられているのである。
もしも生前にどうしてもしておいてほしいことを一つだけあげるなら、葬儀という卒業式を行なうための学校に、入学だけはしておいてほしい。入学していない人の卒業式を行なうモグリの業者が都会にはたくさんあるが、最後がモグリではどんな人生も浮かばれない。
心のこもった卒業式は、お金をいくら残しても、それだけでは叶わないはずである。
げんゆう そうきゅう
作家・僧侶。1956年福島県生まれ。慶応義塾大学文学部中国文学科卒業。2001年、「中陰の花」で、第125回芥川賞受賞。07年には柳澤桂子氏との「般若心経 いのちの対話」で第68回文藝春秋読者賞を受賞。『四雁川流景』(文藝春秋)、『テルちゃん』(新潮社)、『阿修羅』(講談社)などの小説のほか、『荘子と遊ぶ』(筑摩選書)『日本的』(海竜社)など幅広い論考や随想、また『自然と生きる』(東京書籍)など対談本も多い。近著にエッセイ集『無功徳』(海竜社)、呼吸についての五木寛之氏との対談『息の発見』(平凡社)、『禅のいろは』(PHP)などがある。08年2月より、福聚寺第38世住職。また妙心寺派現代宗学委員。福島県警通訳。福島県立医大病院、経営審議会委員。09年4月より京都・花園大学文学部客員教授(国際禅学科)。11年4月から、新潟薬科大学客員教授(応用生命科学部)。