本と標本箱の重圧

私の生前整理 2016年7月1日号より


文=奥本大三郎
(フランス文学者・作家)


ファーブル『昆虫記』を
ライフワークにしたばっかりに

「人生の前半は、散らかし放題に散らかし、後半は、その整理に費やした」というようなことを言ったのは、カサノヴァではなかったか。初めてこの文句を聞いた時は「大袈裟な」と思ったけれど、結局は私も似たようなことをして来た。ただし、カサノヴァのように女関係で、ではなく、本と虫の標本で、である。

 もう何十年も、私はファーブル『昆虫記』の翻訳に携わっている。その間、南フランスのファーブルゆかりの地で実物の昆虫を採集し、資料を集めて来た。ファーブルと南仏に関するものなら、標本や文献だけでなく、机や椅子や農機具のように、ほとんど何でもいい、という調子なので、狭い家の中にだんだんと物が溜まって来た。

 本は、フランス文学と博物学関係のものが多い、とはいうものの、いろんな分野のものに手を出す。昆虫の標本も、全世界からほとんど何でも、採ったり、買ったりする。それでひと頃は、世界中の標本商にいつも借金が四百万円ばかりある、というような状態になった。払ってはまた買うことの繰り返しで、お金はじっと停滞しているわけではなく、借金の血管の中で古い血は出て行き、新しい血が入る。金という血液は循環しているのである。

 そのうちに二階建ての家の畳が、本と標本箱の重みでずしりと沈み込んでしまうようになった。そう言えば、中国の古い硯のコレクションも始めたのだが、硯はもちろん石であるから、それこそ純粋に重い。重さの塊である。

 それだけ物が狭い所に集積してあると、本でも、標本でも、探すものはなかなか見つからない。特に標本箱に中身の虫のタイトルが書いてなかったりすると、この箱に入っているはず、と何段にも積み上げてある箱をようやく下ろしてみて、あっ、違った、というような、トランプ遊びでいえば神経衰弱のようなことになってしまうのであった。

30トンの標本と
10トンの文献の行きつく先は?

 そのうちに友人の助けで、日本アンリ・ファーブル会というNPOが出来、住んでいた家をつぶして「ファーブル昆虫館 虫の詩人の館」という小さな施設を建てることが出来た。四階建てに地下一階。二階に標本収蔵庫、四階に書庫がある。地下にはファーブルの生家を再現。

 しかし、人間の住む所が無くなって、マンションに引っ越した。そして「しまった」と思った。

 元の家は、文京区千駄木の住宅街にあって、固定資産税が大変高い。これは自分が住んでいないから高いのだという。税金と水道光熱費で年間四百万。ボランティアの皆さんには交通費ぐらい払うけれど、他には一銭も払っていない。「ファーブル会」でいろいろ収益事業はするものの、まさに焼け石に水。じゃ、部屋を空けて人に貸せば、と思っても、それには改造費がいるし、NPOとは認められないかもしれない。活動が停止したら、NPOの資金は没収だそうだ。

 それでもこの十年に間に、我々の会で昆虫採集や標本の作り方を教えた子供の数は、延べ数千人になったであろう。社会的貢献を、少しは果たしたのではないかとうぬぼれている。

 学校も定年になり、今はただの物書き、翻訳者であるから、金はとても足りない。寄付も途絶え、資金切れで建物を没収されたら、30トンの標本と10トンの文献をどうしようかと思う。こうなると、退くもならず、進むもならず、まさに立ち往生である。遺言書には項羽の「垓下歌」でも引用し、「虞や虞や、若(なんじ)を奈何(いか)にせん」とでも書いておこうか。


おくもと だいさぶろう

1944 年大阪生まれ。フランス文学者、作家。東京大学大学院修了。大阪芸術大学教授、埼玉大学名誉教授、NPO日本アンリ・ファーブル会理事長、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長。著書に『完訳ファーブル昆虫記』(集英社)、『ファーブル昆虫記ジュニア版』(集英社、産経児童出版文化賞受賞)、『楽しき熱帯』(集英社、サントリー学芸賞受賞)他多数。

2016年7月1日 Vol.28より
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