私の生前整理 2015年1月1日号より
文=ねじめ正一
詩人、小説家
還暦を機に変えようと
決心した生活パターン
60歳になるまでは、昼の11時ごろに起きて、スポーツ新聞を読んで、テレビの「笑っていいとも」をみて、「ごきげんよう」をみて、「徹子の部屋」を見ているうちに、仕事をしないと締切に間に合わないぞと、焦り始めるという生活をしてきた。だからといって、すぐに机に向かうわけではなく、パンを焼いて、ハムエッグと温かい牛乳を飲み、それから、顔を洗い歯磨きをして着替えて、まず、近所の喫茶店に出かける。マスターとひと喋りしてから、仕事場のあるねじめ民芸店の2階にいって、やっと、仕事開始だ。集中力がなくなってくると、また近所の喫茶店にいってひと息入れる。
早く始めれば早く終わることは、よーく分かっているのだが、日が暮れて、お尻に火が付く時間にならないと、仕事に集中できないのだ。だから、夜飯を家族と一緒に食べることもほとんどなく、寝るのも午前3~4時など当たり前。この繰り返しを30年以上続けてきた挙句、自律神経失調症になり、安定剤と誘眠剤を飲まないと、眠れない体になってしまった。
還暦を機に、生活を立て直そうと決心し実行し始めた矢先に、母が右手右足のマヒで歩けなくなってしまった。母は弟夫婦と同居しているが、二人とも仕事が忙しく、時間の自由のきく私が母の家に通って、昼間、母の面倒をみることになった。右手の不自由な母に昼飯を食べさせるために、12時ごろ母の家に行き、弟の嫁さんが帰ってくるのと入れ替えに、大急ぎで仕事場にいって仕事を始める。結局、以前と同じ生活時間に戻ってしまったのだ。それでも、東日本大震災のときは母と一緒にいて、母を抱えてテーブルの下に潜り込み、母を怪我させることもなく無事だったことは、幸いだった。
生来のケジメの付けらない
性格が災いして……
そんな母の家での介助・介護の生活は一年弱続いた。その間に、母の右手右足のマヒますます進み、硬直も増して、認知症も出てきた。昼夜構わず、「いやだ!いやだ!」と叫び、肺炎を起こして、病院に入院。肺炎の回復後は、胃瘻の手術をして療養棟に移るが、マヒも認知症も容赦なく進んでいく。自分の生活を規則正しく修正する余裕などあるはずがない。それから一年後、病院の療養棟も出なければいけなくなって、介護施設探しに奔走し、やっと入所できた施設は、すべてお任せできるところではなかったので、相変わらず、母が中心の生活が続く。この施設でおよそ一年過ぎ、いよいよ特養ホームに入れることになった。特養ホームは、ほとんど家族が関わることがなく、体力も時間も楽になった。
巷では「生前整理」とか「終活」とか「エンディング・ノート」などの言葉が飛び交っているが、だらしなくなかなかケジメの付けられない性格の上に、母のことだけで頭がぐちゃぐちゃになって、他のことは考えられなくなってしまう私には、とても無理なことだ。あとは、野となれ山となれだ。
ねじめ しょういち
詩人、小説家。1948年東京都生まれ。青山学院大学経済学部中退。81年詩集『ふ』で第31回H賞を受賞。89年小説『高円寺純情商店街』で第101回直木賞を受賞。2008年小説『荒地の恋』で中央公論文芸賞、09年小説『商人』で船橋聖一文学賞を受賞。エッセイ『ぼくらの言葉塾』、『落合博満 変人の研究』、『認知の母にキッスされ』他多数。