夫婦の肖像/新藤兼人と乙羽信子

~監督と女優の二人三脚の映画人生~

 

 
シナリオライターであり映画監督の新藤兼人。

宝塚を経て大映から映画女優としてデビューした乙羽信子。

二人の出会いは昭和26年の新藤兼人初監督映画『愛妻物語』。昭和27年の新藤監督作品『原爆の子』には、乙羽は大映の反対を押し切って出演し、それを機に、新藤が創設した独立プロ「近代映画協会」の同人となった。 乙羽はスターの座を捨て、演技者の道を選んだのだ。

ここから、監督と女優の42年にわたる二人三脚の映画人生が始まった。 二人はやがて強く惹かれあうようになる。 新藤は「乙羽とは性で結ばれた。その性から愛が芽生えたから苦しむことになった」と 著書『ながい二人の道 乙羽信子とともに』で告白している。新藤には妻がいたのだ。 二人が晴れて夫婦になったのは、新藤が離婚してから6年後、前妻の死の2年後だった。

乙羽は新藤を「センセ」と呼び、新藤は「乙羽さん」と呼ぶ。 何であろうと新藤のやることに賛成した乙羽を、新藤は唯一の味方だと言った。 それは、男女の関係というより同志としての深い絆だ。 ここに、共に映画人生を全うした男と女の関係が紐解かれる。

文=山本保博
企画協力&写真提供=近代映画協会
参考図書=『ながい二人の道 乙羽信子とともに』(新藤兼人著)

結婚届を出した昭和53年、信州蓼科 の山荘で寛ぐ新藤と乙羽。27年間の 不倫関係を経て、正式に夫婦になれ た夫と妻の穏やかな表情が愛おしく感 じられる一枚。『本能』『午後の遺言 状』はこの山荘で撮られた。

新藤兼人さんと乙羽信子さん、二人の墓は京都妙心寺の塔頭・衡梅院にある。墓石には新藤さんが書いた優しい文字で「天」とある。二人という文字を重ねると天となる。

2002年盛夏、当時は乙羽さんだけが眠る墓を新藤さんと訪ねた。京都の夏は、新藤流に表現すれば「焼けたフライパンの底」のようだった。 90 歳 の新藤さんは暑いと一言もこぼすことなく、僕が演出するドキュメンタリー の撮影に懸命に応えてくれた。

スタッフが墓前に供える花を用意していた。菊などの仏花だった。ところが新藤さんは深紅の薔薇の花ただ一輪を望んだ。自分の不明を恥じた。撮影は新藤さんに甘えて仏花ですませた。撮影を中断して薔薇の花を探してくれば良かったと後悔している。

映画監督と女優。仕事で結ばれた同志、愛で結ばれた男と女。二人にとって仕事と愛は車の両輪だった。そのひとに捧げる花は一輪の薔薇でなければならなかった。

同じ方向を向き走った二頭立ての馬車は、スタート地点から遙か遠い映画の地平へと駆け上がり、そして天に至った。

1994年乙羽さんの遺作となった『午後の遺言状』の撮影に参加した。 撮影に先立って、乙羽さんのために半日かけてテスト撮影が行われた。僕は乙羽さんの前でカチンコを叩いた。乙羽さんはにこやかな顔でセリフを言った。テストしたのは『午後の遺言状』ではなく『三文役者』という新藤さんの次の作品となるものだった。 50 年近 い映画作りの仲間、三文役者殿山泰司 を描くもので、乙羽さんはタイチャン 相手に自身の役を演じる。久しぶりの 撮影に少し疲れたようだが、終わる頃は実に嬉しそうで気力みなぎる顔になっていた。

『午後の遺言状』の主な舞台は信州蓼科高原で、新藤さんの小さな山荘を 影に使った。杉村春子演じる新劇女優蓉子が避暑に訪れる。その面倒を見る 農家の管理人豊子を乙羽が演じた。二 人のベテランの掛け合いは軽妙で、すこぶる面白かった。豊子は蓉子の夫を 愛し娘を産んだと告白する。

……続きはVol.38をご覧ください。

肝臓がんで乙羽の余命が一 年半と告げられるが、「乙羽さんの女優としての最後の場をととのえるべきだと思った」と、『午後の遺言状』(平成7 年公開)の製作にふみきった 新藤。蓼科の山荘、新潟県寺泊海岸の砂浜で撮影中の、乙羽、新藤監督、杉村春子。

昭和53年10月1日、銀座千疋屋 で結婚を祝う会が、近代映画協会の メンバーによって開かれた。「あなた の奥さんになるつもりはない、それでは奥さんにすまないから、わたしは 一生日陰の身でいい、その覚悟をきめています」と言っていた乙羽だが、 結婚が決まったときには新藤が驚くほどうれしがったという。これで銀座を一緒に散歩できるし映画も肩を並 べて見ることができると。

しんどう かねと & おとわ のぶこ

映画監督、脚本家の新藤兼人は明治45年(1912)広島県生まれ。女優・乙羽信子は大正13年(1924)鳥取県生まれ。

昭和25年に新藤は独立プロ・近代映画協会を創設。二人が出会った当時、乙羽は〝百万ドルのえくぼ〟をキャッチフレーズとする大映の人気スターだったが、昭和26年新藤宿願の監督デビュー作『愛妻物語』に、乙羽はどうしても妻の役をやりたいと願い出、出演が実現した。

昭和27年新藤監督、乙羽主演の『原爆の子』の舞台挨拶のとき、乙羽は近代映画協会に参加することを決意する。ここから42年間にわたり、共に映画人生を歩むことになった。以降、乙羽はすべての新藤監督作品に出演している。

2人の映画には『縮図』『女の一生』『どぶ』『狼』『銀心中』『流離の岸』『女優』『悲しみは女だ けに』『裸の島』(モスクワ国際映画祭グランプリ他各国映画 賞受賞)『人間』(文部省芸術祭文部大臣賞)『母』(毎日芸術賞)『鬼婆』『悪党』『本能』『藪の中の黒猫』『裸の十九 才』(モスクワ国際映画祭金賞)『心』『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(キネマ旬報ベストテン1位、監督賞他受 賞多数)『竹山ひとり旅』(モスクワ国際映画祭監督賞)『絞 殺』(乙羽はヴェネツィア国際映画祭主演女優賞)『午後の遺言状』(キネマ旬報ベストテン1位、ブルーリボン賞、毎日映画 コンクール、日本アカデミー賞などで多数の賞を受賞)など映画史に刻まれる多数の作品がある。

昭和53年1月18日に結婚届を提出。平成6年(1994)乙羽70歳で死去、平成24年(2012)新藤100歳で死去。

やまもと やすひろ

1959年福岡県飯塚市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。松竹シナリオ研究所基礎科を経て松竹テレビ部にて助監督見習い開始。以降フリーとしてテレビ映画の演出部を経て、近代映画協会を中心にテレビ、ビデオなどの演出をするようになる。新藤兼人作品には『濹東奇譚』(1992)以降、遺作となった『一枚のハガキ』(2011)まで全ての映画、テレビ作品に参加。 20年ほど師事することになった。NHKBS「究極のラストカットを求めて」(2002)で新藤の半生を追ったドキュメンタリー を演出。新藤の戦争体験をドキュメンタリードラマにした映画 『陸に上った軍艦』(2007)を監督。シナリオ「ヤマの記憶」が第4回日本シナリオ大賞佳作。


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