西城秀樹 青春のアルバム

SPECIAL FEATURE 2019年4月1日号より


2018年5月、63歳を迎えたばかりの西城秀樹の死は衝撃をもって人々に伝わった。追悼番組などでは、〝ヒデキ〟の残した数々の伝説や打ち立てた記録が紹介され、その死後改めて西城秀樹という歌手の存在の大きさを人々は思い知らされることになった。スタジアム・コンサートを日本人ソロ・アーティストで初めて開催したのはヒデキ。いまではよく見られるペンライトもヒデキのコンサートから始まった。「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」はテレビ「ザ・ベストテン 」で最高得点9999点を獲得という、今でも語り継がれる伝説的記録を打ち立てた。人々の心に、さまざまなシーンでのヒデキが刻まれている。 5月16日、西城秀樹の一周忌を迎えるにあたり、同世代のエッセイスト、泉麻人さんに〝ヒデキのいた景色〟を語ってもらった 。泉さんのなかに、ヒデキのいた時代が次々と甦り、 泉さんが綴る〝ヒデキの青春の光景〟からは、ヒデキが、時代を象徴するまぎれもない 〝トップスターアイドル 〟であったことが鮮明に伝わってくる 。       企画協力・写真提供:アースコーポレーション

スタジアムが似合う男
西城秀樹と青春の光景

文=泉麻人

シンボリックなヒット曲
74 年夏「傷だらけのローラ」

1972年3月25日、「恋する季節」で歌手デビュー。高田馬場駅前でのキャンペーンのようだ。
デビュー2年目、1973年頃の〝ヒデキ〟。デビュー2年目にして早くも日本レコード大賞で歌唱賞を受賞している。また、〝ヒデキ、感激!〟でおなじみの「ハウスバーモンドカレー」のテレビCMも始まった。
ジャガーで着用したセクシーな衣装と、「抱いてやる!」と絶叫すするセリフはファンのハートを射抜いた。

 西城秀樹さんが世を去って、もう1年になろうとしている。1955年4月生まれの秀樹に対して、僕は56年4月生まれ。同時代を生きてきた人の死というのは、ひときわ切ない。
 
 そんな秀樹が僕らの前に現れたのは、 72 年、高校1年生の初夏の頃だっ た。まぁ、いまどきネットをチェックすれば、デビュー曲「恋する季節」・ 72 年3月 25 日発売――なんてデータはすぐに出てくるけれど、僕は当時独自の歌謡ベストテンをノートにつけてい た。独自といっても、好みの曲を自分本位に羅列するものではなく、テレビやラジオのベストテン番組のチャートを参考にヒット曲の情勢を割と忠実に記録していたのだ。
 
 それによると、「恋する季節」が初めて登場するのは5月 20 日土曜日(毎週土曜日に作成していたのだ)。しかし〝番外上昇曲〟の欄に18 位として記録された後、ベストテン入りはしていない。つまり、さほどヒットはしなかったのだ。ちなみに〝新御三家〟のなかでデビューの早かった野口五郎は、すでに「青いリンゴ」や「好きなん だけど」がスマッシュヒット、さらに秀樹より遅れてデビューした郷ひろみは「男の子女の子」が秋口にいきなりチャートインしている。そう、僕のこのチャートで秀樹の「恋する季節」とほぼ同時期に伊丹幸雄の「青い麦」が ベストテン下位に入っているけれど、おもえば当時、野口・郷・伊丹を〝新御三家〟とする声もあったような気がする。
「恋する季節」に続く「恋の約束」「チャンスは一度」あたりもテレビの 「ベスト 30 歌謡曲」なんかで見聞きしたイメージはあるけれど、派手なヒットまでは至らず、僕のチャートで秀樹の曲が初めてベストテン入りを果たすのは翌 73 年の春。シングル第4弾の 「青春に賭けよう」が4月14日付で9位、 21日付で7位にランクイン、これが最初のスマッシュヒットといっていいのではないだろうか。
 しかし、前期のメインライターといえる鈴木邦彦のこの曲は、同じ鈴木が手掛けていた森田健作調の〝健やかな青春ソング〟の路線で、従来の秀樹のイメージからは外れていた。秀樹らしさが確立されたのが次の「情熱の嵐」。
 当時はやりのチェイス調のイントロで始まって、なんといっても「キミが 望むなら~」の後の「ヒデキ!」の合いの手を計算したような曲構成が白眉だった。


 僕がこの曲を聴いたときに連想したのが、名前の語感も似ている西郷輝彦が歌っていた「真夏のあらし」って曲 なのだが、たぶんこの時期の西城のコンセプトのなかに〝新しい西郷〟みたいなのがあったのではないだろうか。
 
 さて、「チャンスは一度」あたりで兆候を見せていた、ダイナミックなアクションを取りこんだ絶叫型歌唱も「情熱の嵐」以降いよいよ加速していく。「ちぎれた愛」「愛の十字架」「薔薇の鎖」「激しい恋」、そして 74 年の夏、 シンボリックなヒット曲となった「傷だらけのローラ」が世に放たれた。この年初出場した紅白歌合戦のトップバッターで歌われたナンバーであり、秀樹のモノマネのスタンダードにもなっていった。 

大学時代に歌った
ご機嫌な「恋の爆走」

1978年8月には作詞・阿久悠、作曲・馬飼野康二のコンビによる 「ブルースカイブルー」がリリースされた。11月には第5回となる日本武道館でのリサイタル「永遠の愛7章/西城秀樹」を開催し、「ブルースカイブルー」は、日本レコード大賞金賞、 FNS歌謡祭’78では、初の最優秀歌唱賞に輝いた。

 僕は翌75年の春に大学に進学したが、入部したサークルの宴会で「ローラ」のパフォーマンスを持ちネタにする男がいた。高校時代のサッカー部の宴会で「男の子女の子」のモノマネがウケて以来、僕の十八番は郷ひろみだったのだが、大学のサークルで知り合ったその男が披露する「傷だらけのローラ」は格別だった。レンズの厚い黒縁メガネをかけたカタブツな風体の男がいきなり「ローラ!」と絶叫、乱れていく感じがたまらない。お上品な僕のひろみ芸は一発でぶっとばされ た。

 そんなこともあって、宴会でも秀樹の歌は禁じ手にしていたのだが、サークルが夏に開催するイベントで僕は秀樹の曲を絶唱してしまった。75年の夏、曲はゴキゲンなロックンロール・リズムの「恋の暴走」だ。
 葉山の海岸で催される「キャンプストアー」というイベントなのだが、そこに毒蝮三太夫が司会をする「とびこみ歌合戦」とかいう番組(特番の1コーナーだったかもしれない)がロケでやってきた。街頭でシロートにゲリラ的に歌わせる、まぁいかにも毒蝮さんらしい企画。たまたまその日に参加 していた僕が選ばれたのだが、何故得意の郷ひろみをやめて西城秀樹にトライしたのだろう。〝ローラの男〟への対抗心が疼いたのかもしれない。
 このとき、司会の毒蝮以上に印象に残っているのは、ゲストで山口百恵が入っていたことだ。「夏ひらく青春」を歌ったはずだから、「青い果実」で人気が定着していたとはいえ、まだ桜田淳子より控え目なポジションにいた頃である。暴走するバカ大学生の秀樹芸を、毒蝮の脇で薄ら笑いを浮かべて眺めていた百恵ちゃんの姿が目の奥に 刻まれている。

 そう、この75年の夏場、「あこがれ共同隊」(TBS)というTVドラマで秀樹は桜田淳子と共演していた。もう1人、郷ひろみを加えたアイドル3人を主役にした青春群像劇で、山田パンダが吉田拓郎作曲のテーマ曲を歌うタイトルバックから舞台の原宿、表参道が映し出されていた。滅多に再放送さ れないので確認しようがないけれど、 確かキディランド脇の歩道橋から青山方向を俯瞰した映像だったはずだ。

 
 秀樹の役は脳腫瘍に侵されながらオリンピック(たぶん 76 年のモントリオール五輪だろう)をめざすマラソンランナーで、最後、神宮外苑の絵画館前でふらついて噴水池に入水、桜田に抱きかかえられて息絶える(いや、看取るのは母親の黒柳徹子だったかもし れない)。
 秀樹のドラマといえば、なんといっても「寺内貫太郎一家」だろうが、いま一度観てみたいのはこの「あこがれ共同隊」だ(映像が保存され始めた時代だが、再映できないのは権利関係の問題かもしれない)。

打ち上げ花火を凌駕する
秀樹のパフォーマンス

さて、青春時代の話から少し後になるけれど、西城さんが司会をする番組に一度よばれて行ったことがあった。 ウィキペディアで調べると、それはNHKの「青春のポップス」という番組に違いない。98年から02年にかけての放送なので、保存しているその時代のスケジュール帳(カレンダー式の手 帳)を丹念に調べてみたら、2000年の11月8日のマス目に〝青春のポップス収録101 st (スタジオ)〟のメモ書きを見つけた。どうやら16時30 分に入って、17時~22時で収録は行われたらしい。

 ゲストが洋楽系の思い出の曲をリクエストして、レギュラー陣(西田ひかるや番組専属のポップスグループがいた)がそれを歌う、といった構成だったと思うが、どんな曲をリクエストしたのかさっぱりおぼえていない。横で秀樹に「泉さんはどうですか?」なんて調子で仕切られている雰囲気が妙だった。しかし、2000年11月という収録日からすると、 20 世紀の終わり、あるいは21世紀の始まりに西城秀樹と仕事をご一緒したことになる。

1991年にはアニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当し話題となり、東京・厚生年金会館で、デビュー20周年記念コンサート「HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR ’91 FRONTIER ROAD」を開催した(写真上 は93年)。94年には主演ミュージカル『ラヴ』(鳳 蘭共演)に出演し、10年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場、紅白には通算18回出場している。

と、ここまで書いてきたところで、もう一つ、重要な番組を忘れていた。80 年代後半、僕が御意見番的役割で出演していた「テレビ探偵団」に秀樹もゲストでやってきたことがあったのではなかったか……。いまどきは〈YouTube〉というメディアがあるの で、「西城秀樹テレビ探偵団」と検索すると、アップされていた。しかもコレ、内部のスタッフが上げたのか、頭 に1988・5・1 19 :30 - 20:00なんてオンエア日時のデータが刻まれている。僕は86年10月のスタートから2年ほど出ていたはずだから、レギュラー晩期の頃だろう。
 内容はさっぱり忘れていたのだが、 いやぁまいった。冒頭の秀樹登場の前フリで、僕が「激しい恋」のヘタな振りマネをやって(やらされて)いる。
「やめろっといわれても」
 の後で、両手をぎこちなく上下動させて、司会の三宅裕司や山瀬まみ、スタジオの観客に冷笑されている。しかし、番組を眺めるうちに当時の光景が徐々に甦ってきた。

2003年に公演先の韓国で脳梗塞を発症す るも、闘病の末復帰し翌年にはステージ に立ち「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」はじめヒット曲を披露していた。また、コンサー ト活動に加え、09年にはNHK連続テレビ 小説「つばさ」に出演、11年にはミュージカ ル『マルグリット』に出演するなど俳優としても意欲的に活動し、デビュー40周年記念コンサートを開催したが、同年、脳梗塞の再発が判明する。だが、決してあきらめない、生きることに前向きな生命力で、再びステー ジに立つまでに回復し、亡くなる前月までコンサートに出演していた。

 思い出の番組をリクエストするコーナーで秀樹は「恐怖のミイラ」や「アラーの使者」という、同世代がグッとくるシブいヒーロー番組を提示して、 先述した「あこがれ共同隊」のラストシーンも紹介された。スタッフロールが流れるエンディングの曲は、 79 年の「8時だよ!全員集合」のコント間で披露された「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」。
 いまもCMなどで歌い継がれるスタンダードポップスだが、僕が最後にライブで眺めた西城秀樹もこの曲を歌っていた。
 
 それは「青春のポップス」出演から2年後の02 年夏。ロッキングオン社の 雑誌「サイト」の連載エッセーの取材で神宮球場の花火大会を見物に行った。派手な仕掛けがある、というので一度現場で眺めてみたいと思っていた のである。


 スポンサーの消費者金融の当時ブレイクしていたダンサーズのパフォーマンスなんかもあったこのライブ、目玉 の花火打上げ直前に登場した秀樹のステージは花火を食うほどに素晴らしかった。まず、「ギャランドゥ」をぶちかまし、「情熱の嵐」「傷だらけの ローラ」があって、締めはもちろん「YOUNG MAN」。若いチャパツの浴衣ギャルたちも含めて、スタンドの観客総立ちでY・M・C・Aの振りを合わせている様子が当時のエッセーに綴られている。
 西城秀樹は大阪球場のライブが有名だったが、花火があがる神宮のスタジアムもよく似合っていた。

従来の大阪球場に加え、1978年には東 京・後楽園球場でも第1回コンサート「BIG GAME ’78 HIDEKI」を開催した23歳の ヒデキ。ヒデキのスタジアム・コンサートと言 えば、クレーンやレーザー光線を使用した り、と大仕掛けで派手な演出が売りだった。 79年の雷鳴が響き、稲妻に照らし出され、 豪雨の中歌い続けたヒデキの姿は今も伝説 として語られている。その後も81年まで計4回コンサートを行い、後楽園球場最多公演アーティストとして名を刻まれている。

information

妻・木本美紀著 『蒼い空へ 夫・西城秀樹との 18年』 小学館から発売中 1,512円(税込)

西城秀樹シングル曲の コンプリート・ボックス 『HIDEKI UNFORGETTABLE HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE1972』 2019年5月16日発売

いずみ あさと

コラムニスト。1956年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース 通信社に入社、「週刊TVガイド」の編集に携わる。84年退社後フリーランスとして 新聞、雑誌などで執筆活動を続けている。 CMソングの大家・三木鶏郎の評伝『トリロー』 が5月に新潮選書から刊行される。

2019年4月1日 Vol.39より
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