「昭和の姉」とすごした風景
SPECIAL FEATURE 2010年10月1日号より




作家であり脚本家であった向田邦子さんが一人暮しを始めたのは 昭和三十九年十月十日、東京オリンピックの開会式の日、三十五歳だった。東京都港区西麻布三丁目十七番地、昔の町名でいえば霞町。そして昭和四十五年、四十一歳のときに終の棲家となる東京都港区南青山五丁目一番地南青山第一マンションに越した。 忙しい中にも時間を見つけては散歩を楽しんだ向田さんは、つっかけ履きで、住まいの近所を歩き、日常の暮しのなかに四季を発見し、ここは私の縄張とばかりに次々にお気に入りの店を見つけていった。旺盛な野次馬根性、せっかちで、新しもの好きで、頑固で、自慢したがり屋。向田さんの散歩の風景には、向田邦子そのものの気質が見え隠れする。末妹の和子さんとともに向田さんが愛した南青山、西麻布(霞町、笄町)を歩いてみた。向田邦子の散歩道は、和子さんが姉との時間を楽しんだ記憶の風景でもあった。
文=向田和子
撮影:ヤスクニ
向田邦子
作家、脚本家。昭和4年11月28日東京生まれ。昭和 25年実践女子専門学校(現実践女子大学)卒業、財政文化社に入社し社長秘書を務める。昭和27年雄鶏社に入社、「映画ストーリー」編集部に配属。昭和33年に初のテレビ台本「ダイヤル 110番」を共同執筆。昭 和35年には女性のフリーライター事務所「ガリーナクラ ブ」に参加、「 週刊平凡」「 週刊コウロン」などに執筆。昭和37年ラジオ「森繁の重役読本」開始。昭和39年テレビ「七人の孫」開始、人気シナリオライターに。テレ ビドラマの脚本「だいこんの花」「 時間ですよ」「 じゃが いも」「寺内貫太郎一家」「 母上様・赤澤良雄」「冬の 運動会」「眠り人形」「 家族熱」「 阿修羅のごとく」「 源氏物語」「 あ・うん」「 幸福」「 隣りの女」などテレビ史に残る多数の作品がある。昭和53年には初のエッセイ集『父 の詫び状』を刊行。昭和55年には「小説新潮」連載の連作短編小説『思い出トランプ 』の「花の名前」「 かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞受賞。昭和56年8月22日、台湾旅行中に航空機事故で死去。
あなたはどんな散歩日和がお好きで すか。
心が躍った、姉との散歩道
邦子姉との散歩は大雨でも何であれ 一緒に歩くことだけで心が躍るのです。この世を去って三十年もの時を経て、姉の愛した散歩道を私は普段着でそぞろ歩きをすることにしました。
その日は、晴れのち曇りところにより雨。なんてステキ、天候もいろんな顔と表情で挨拶してくれている。出発点は表参道、南青山第一マンション(邦子の終の棲家)からとは粋なはからい。
人も車も程よい活気とリズムを注いでくれ、十分も歩くと根津美術館の樹々と白壁のゆるやかな坂。これは次の舞台への序奏のようだ。
昔の町名でいえば笄町あたり。そこには高層ビルはなく、木造モルタル造りの家々、「あけぼの荘」といった昭和な感じの名前がついたアパート、せ いぜい三階どまりのマンション。小さな公園、小さなベンチ、ゴミのない静けさがある。遠くに視線を向けると、この静寂さはさらに歩みを速めてくる。青山墓地である。なんともいえないおいしい空気があった。樹々となつかしいドクダミ、ネコジャラシ、正式名は判らない草々が自由闊達に主張し ていた。細い道沿いの家では小さな空間をいかしてナス、ゴーヤも育てている。あじさい、あさがお、季節の彩りもわすれない心づかい。
さわやかな生活感、その住人とのたちばなしもまた一服の水で、喉をいやす。そんな風景、匂いが私の記憶を祖父宅へといざなう。六十年も昔へとタイムスリップ。邦子、専門学生の二年程寄宿した麻布市兵衛町の祖父の家。六本木、霞町、青山、渋谷は通学路、いやアルバイトの日々の地図の一ページ。邦子の若い感性にジンワリとしみこんだ生活感覚の基本がここにあった。
このあたりを姉と歩くと早足になり歌をうたったりした。ここは酒屋だった、女優さんの家はあそこ、目も口も手も動き、私はスキップをしてついてゆく。くちなしの香り、一枝欲しいが匂いどろぼうで満足、二人で深呼吸。うれしや、今再びこの細道にくちなしの木、見つけた。心の小ひきだしにメモを入れた。
─私は、身のまわりのものと、共同所有ではない伽俚伽だけを連れて家を出た。東京オリンピック開会式の日だった─ 『眠る盃』より



本能的にお気に入りを見つける人
邦子は些細なことから父といい争 い、〝出ていけ〞〝出てゆきます〞となった。次の日一日でアパートを探し、猫 一匹だけ連れて移る。その日は東京オリンピックの初日であった。その住いが霞町、無意識のうちに選んだのは自分のテリトリーだった。邦子は動物的感覚が強い。〝猫かいな〞私はポツリつぶやいた。邦子は猫の嗅覚と身のこなしで散歩道をいつも風のように歩いた。霞町からよくでかけたソビエト大使館そばのボウリングの帰り道、 〝お腹空いた、何にしよう〞言葉とうらはらに足は「香妃園」に向かっている。

─「う」 は、うまいものの略である。
この抽斗をあけると、さまざまの切り抜きや、栞が入っている ─ 『霊長類ヒト科動物図鑑』より
気に入ると、かよいつめる。鳥そばがお目当て。腹具合、これはお金を含めての相談事。すべての支払は親分の邦子。邦子三十五歳、シナリオライター。まだ代表作もない。よく遊んでもらった。鳥そばもたくさんおごってもらった。両親への土産も心づけもあった。だがこの時、仕事がなく暇だった。おくびにも出さず、次なるステップの助走はしっかり、余裕のある面構え。私が幼すぎて読めなかったのかもしれな い。その事実を知ったのも姉がこの世を去ってからのことだった。
邦子はおっちょこちょい、野次馬根性大いにあり、よくいえば好奇心旺盛。自慢したがり屋でもある。霞町一押しの店も探さずにはいられない。いろんな時間帯に視察をする。インスピレーションを第一とするが、確認もおこたらない。行動は俊敏にして短時間、一人を好む。本人は気分よく鼻高々に案内するのを何よりの気分転換と思っている。〝お父さんに酒のおつまみを見繕うから持っていって〞案内されたのが「いわ田」鮮魚店。静かな路地を入ると、あたりに店はない。しもた屋風の店の前に三、四人の客。猫もゆうゆうと坐っている。風情のある、なんともいい眺め。
邦子は店はのぞかず、店の前の空地に立って、御主人の立居振舞をたのしげに見ている。この猫自慢まで私に聞かせる。せっかちで待つのが嫌いな人なのに、ここは特別な空間のようだ。御主人おすすめの品を包んでもらう。自分で選ぶのが常なのに、絶大なる信用で四季折々の魚のうまさを学ばせてもらう、そんな姿勢だった。霞町から表参道に転居する際、面倒みてもらえるか確認してから住いを決めた程のお気に入りだった。それは御子息の代になっても変ることはなかった。「男性鑑賞法」(雑誌「アンアン」の連載 一九七六~七七)に登場する岩田修さん、今の当主である。江戸前の魚のうまさ、刺身の美しさを少し解るきっかけをもらえたように思う、とは父と母の感想である。
─大通りから一本入った路地の、しもた屋風の目立たない店だが、何より品(シナ)がよく、家族だけでやっている商いも好きで、十年以上も前から魚はここと決めていた─ 雑誌「アンアン」連載〈男性鑑賞法〉より


邦子さんが一人暮しを始めてすぐになじみになった鮮魚店。

同じ道の散歩でも行きと帰りでは観るもの、感じるもの、探すもの、見つけるもの、が違う。雨、風、暑さ、寒さ、光と影、あらゆる状況で変る不思議さ、面白さがある。一人歩きの自由さもいい。人とのかかわりのなかで思わぬ相乗効果もある。人であれ物であれ空間であれ、何がどうなるという想像を超えて出会えるかもしれない。そんなことを、姉と霞町から六本木を歩くことで気づかされたのかもしれない。それ以上に、歩くことはとても原形の行動、基本形、人を気持よく素直に大らかにする。姉がポツリ、ポツリ、ポロンと落した言葉にとても真実味がある。本音かもしれない。

忙しい時こその
ゆとりの時間
霞町に六年余りお世話になり、南青山のマンションに転居。偶然通りかかった道のゆきついたところ、まだ基礎工事中。そこでこのマンションの立看板が目にとびこみ予約した。この道の両側は生垣の家屋がほとんどで、土の香も樹々のみどりも季節の移ろいもマンションのベランダに出ると目の前である。ここが終の棲家となった。
情報も自分が発信することを趣味と思い込んではりきる。ちょっと滑稽で笑いをのみ込むこともあるけれど、おつきあいする。ご近所のケーキ屋に入れ込んで、キャロット・ケーキばかり食べさせられたこともある。野菜のケーキがめずらしい時代で、新しもの好きでこれしか目に入らず、これしか買わない頑固者。
店先の柳の木が目印の「菊家」。水羊羹に干菓子。粋な着物をゆったり着こなした先代の女主人がゆき届いた応対をしてくれ、緋毛氈をあしらった待合の椅子に腰かける。「唐衣」「結柳」と墨文字が美しく書かれた紙札が入った干菓子。季節ごとに変る生菓子に四季のある日本っていいなと思う。水羊羹は桜の葉っぱの上に切口と角のあるもの、のどごしのよさを好む。器もお茶も心おきなく自分好みにして、このひとときを味わうぜいたく。忙しい時こそこんな身近なことにゆとりを見出したかったのだろう。日持ちのよい干菓子は、まな板皿に季節を盛り込んで愉しんでいた。

南青山の骨董通りにある昭和10年創業の和菓子の店。邦子さんは先代の女将・秋田きみ子さんの優雅な物腰と、この店の菓子の甘さの加減が好きで霞町時代から通いつめた。取材旅行にもここの干菓子を持参したほど。今の時代だからということではなく、お茶席で使われることが多いため、甘さを控え目にしています、と二代目の秋田隆子さん。

長くおつきあい出来るものは、魚であれ菓子であれ、果物であれ、そのものが主役かもしれないが、それ以上にそれに携わる人間があってのことだ。これが決め手。相性もあるだろう。その人の品性、個性、そのものに対する熱意、その総合したもの。邦子の感性は見抜いている。大いなる時を経てもその価値は変らず、感動を伝える。そのことをこのそぞろ歩きで身にしみて知ることが出来た。ふと気づくと、姉が手招きして案内してくれていた……。
なくなったものもある。違った場所で生き生きと活躍しているだろう。失ったものを失望したり悲しむ。瞬間的には、たまにはそれもよしか。

あの日の散歩道での
新たな出会い
あれから三十年。今、心に寄り添う、和む、刺激を受ける、そんな探し物をする。私だけのもの、秘密にしたいほどの出会いもいい、会いたい。
西麻布という番地表示がある、といっても人通りもあまりなく、ひっそりとたたずむ。通りすぎてしまっても不思議ではないはずなのに、涼やかに自己主張している様子もうかがえる。
「さかむら」。店前にはやわらかな濃淡のある緑の草木。入っていいのかな、と思うほど生活感の自然さがある。以前は何に使われていたのだろう、うまく再利用されている棚に、骨董、素朴な土器などが空間も楽しげに置かれている。朝摘んでこられた草花が、〝こりゃプロ〞と舌を巻くあしらいで生けられ、〝さりげなさの美〞を知らされる。物があふれる程置かれていないのがいい。目を凝らすと、気になる品が次々と飛び込んでくる。飲物、御酒、食べ物あり。
コーヒーをいただく。手におさまりのよい熱くない木彫りの器。飲みやすく、手にとってよし、置いてまたよし。この空間で本を読むのも、心地良さを思う。強いが静かな主張という個性も、御主人の姿勢も、おしつけがましくない雰囲気に漂う。散歩の途中に、ふっと気軽に新しい器とともに会いたくなる店。
気分よく歩く一万歩は体がよろこぶのか、自然な流れで喉が渇き腹が空く。

華道家の坂村岳志さんが、花器を中心とした骨董と喫茶の店として2001 年にオープン。骨董が大好きだった邦子さん。飾ったり、仕舞い込むのではなく、身近に日常使いをしていた。この店と出合っていたら、どんな花器を求めどんな風に花を挿したであろう。いや、もしかすると、花器以外の用途を考えたかもしれない。和子さんはこの日、麻雀のときのお守りとして竹製の麻雀牌を購入。
二階建ての凝った造り、これは何かしら。
「豚組」。とんかつ専門店。
こんなしゃれた店でとんかつ、ウフフ……。
お父さんのとんかつは厚くて大きくてふんわりしていた。私のは薄くて固い。そんなひがみ根性で横目で見ていた。ソースもジャブジャブかけて、キャベツ、ポテトサラダ、トマトつき。やたらおいしそうに見えたものだ。とんかつといえば、連想ゲームのようにこんな光景があらわれる。
由緒正しい豚肉、衣も吟味、揚油も上等。うまい、うまい。出されるタイミングも心憎い。二階のくり抜き窓からの外の景色も情緒あり。豚肉のうまさの違いを知るのも、ここならではと思う。
佳日(よきひ)の締めは、バーにしたい。
なんて間がいいんでしょう。「豚組」のご近所にラム酒だけ扱うバーがある。ここ、バー? と思う程入りやすい雰囲気。ごく自然体で一日の思い、余韻にひたり、自分自身を自由に解放し、やすらぎの深呼吸。明日のためのリラックスタイム。
邦子と無意識にそぞろ歩いた青山、麻布界隈。三十年の時を経て何がよみがえってくるのだろうか。
怖くもあり愉しみでもあった。
無意識のなかの記憶のあり様も少し解った。
古さ新しさの区別なく、本物はいつも新鮮で輝いている。本物にならないと本物が見えないのだろうか。歩きながら感性豊かに街を観察する。まだこれからも歩く、歩く……。
本物に出会えるように。本物になるために。
─ 私のように知識も鑑定眼も持ち合わさない人間は、体で判断するほかはない。背筋がスーとして総毛立ったら、誰が何と言おうと、私にとっては「いいもの」なのである─ 『眠る盃』より

表通りから一筋中に入ると違う風景が広がる。昭和の面影を残すそんな路地に佇むのが、趣深い木造2 階家の豚組。邦子さんが愉しんだ散歩は、こんな脇道でのサプライズであったのかもしれない。とんかつ膳はロースとフィレがあり、この日和子さんが注文したのは、なっとく豚(岐阜・下呂)のロース膳2,300円。

ラムが共通語化する前は「キルデビル」「ネルソンズ ブラッド」などさまざまな呼び方をしていたが、「タフィア」もその一つ。アルコールはラム酒のみで、約300 種類のラムが揃っている。世界のいろんなエリアで造られている酒だけに、味のバリエーションがラムの魅力であり、絶対好みのラムが見つかるはずと語るオーナーの多東千惠さん。
むこうだ かずこ
エッセイスト、東京生まれ。実践女子短期大学卒業後、会社勤めや喫茶店経営を経て78 年に姉・邦子とともに東京赤坂で惣菜・酒の店「ままや」を開き、姉亡き後も98 年3月に閉店するまで20 年間きりもりした。著書に『かけがえのない贈り物 ままやと姉・邦子』『向田邦子の青春写真とエッセイで綴る姉の素顔』『向田邦子の遺言』『向田邦子の恋文』『向田邦子 暮しの愉しみ』などがある。