久世光彦のテレビ

昭和の匂いを愛し、
テレビと遊んだ男

SPECIAL FEATURE 2012年7月1日号より


「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー」「ムー一族」。いずれも久世光彦さんの演出のテレビドラマだ。子供から大人までを夢中にさせ高視聴率を誇ったこれらの作品はユニークだとか、型破りであるとか評された。挿入歌をヒットさせ歌った新人をアイドルにまで育て上げたり、従来の演技者の枠の外に棲む人々をキャスティングしたり、生放送でドラマを放送するといった先駆者的演出が、そう言わせたのだろう。だが、今のテレビドラマに久世さんの型破りを破る演出があるだろうか。久世さんの演出は型破りだけではない。
ドラマの中には母から娘への教え、家庭教育、季節の行事、家事の仕方といった昭和の匂いを愛する久世さんならではの細やかな目配りがあった。朝食のシーンで、メニューを紹介するという企画もあり人気だった。昨晩のカレーや煮物の残りが食卓に並び、白瓜の漬物の漬け方が紹介されるなど久世さんの遊びに視聴者たちも一緒になって楽しんだ。

脚本家の筒井ともみさんは久世さんと六本のドラマを作った。今、筒井さんが語る久世さんの姿から、久世さんのドラマ作りのある一面が見えてくる。
さあ、お茶の間に全員集合!
昭和のテレビドラマの〝時間ですよ〟!

取材協力&写真提供・久世明子

かなりイカシてたぜ、久世さんって

文=筒井ともみ

演出家と向き合う
ゼロからの仕事

作っている方が機嫌よく遊んでいないと、見る人たちは楽しくないに違いない。(中略)私たちは運のいい時代にテレビという巨きな玩具で遊ばせてもらったのだ。
(『遊びをせんとや生まれけむ』文藝春秋)

 久世光彦さんとは六本、単発テレビドラマを作った。あまり仕事をしない私としては、いちばんたくさんの仕事をした演出家だ。

 だからといって親しかったわけではない。全然親しくなんかなかったのだ。久世さんはお酒を飲まなかったから酒席を共にしたこともないし、仕事を離れてお茶を飲んだこともない。食事は一度だけ。最初の仕事「怪談・花屋敷」を作る前に、顔合わせとしてフレンチを食べた一度きり。

「ワタシはお酒を嗜(たしな)みませんが、飲みたければどーぞ」と言われたから、「じゃあ、ワインいただきます」と応えて、白から赤までちゃんと飲んだことを覚えている。メインはビーフステーキ。私が「レアに近いミディアムレア」と注文すると、呆れた顔で「ワタシはウエルダン。よーく焼いてください。草鞋(わらじ)ぐらいよーく焼いて」と注文したので、私の方だって呆れ顔になってしまった。この日の久世さんはノーアイロンの白いシャツに白い細畝のコーデュロイパンツ、まだ花冷えの季節だというのに素足に白いズック。以来、たいていの時の久世さんは素足に白いズックだった。

芸術選奨文部大臣賞、芸術祭優秀賞などに輝いた「小石川の家」での久世さんと、幸田露伴を演じた森繁久彌。森繁さんも久世ドラマに欠かせない俳優の一人だった。

 打ち合わせは赤坂プリンスホテルの旧館にあった喫茶店「ナポレオン」。夜にはバーになるこの昭和初期の面影をのこす喫茶店は久世さんの大のお気に入りで、日差しが傾き始める夕刻から約三時間、静かな個室で久世さんと向き合った。

「さーて、どんなドラマを作ろうか。どんな俳優でやろうか」。そんなゼロから演出家と脚本家のふたりきりで作っていけるなんて、たぶん今のテレビ界ではありえないだろう。企画書を提出させられ、タレントは誰なのか、視聴率は大丈夫かなどチェックされるにちがいない。でも我々はそんなことから自由だった。もしかしたら制作会社のボスでもあった久世さんには面倒なことがあったのかもしれないけど、脚本家はそんな面倒は寄せつけず面白い(と、自分たちが思う)ホンを書くことに集中させてくれた。

 木製の焦茶色のテーブルの上に白い紙が置かれる。可能性にあふれた真っ白い紙。でもすぐに中味のある打ち合わせが始まるわけではない。だらだらと与太話がつづく。早く本筋をいけばいいのに、だらだらのまわり道をつづける。

向田邦子さんの妹の和子さんが経営していた「ままや」には久世さんをはじめ多くの俳優があつまった。写真右から向田和子さん、杉浦直樹さん、小林亜星さん、久世さん。

  忙しい久世さんとゆっくり話すなんてこんな打ち合わせの時しかなかった。そしてこんな時に聞かせてもらった与太話の面白かったこと! とても紙面で発表できるものではない。だから、秘密。そんな間には紅茶や珈琲のお代わりを注文する。ついでに久世さんはケーキも注文する。一つじゃなくて、二つも三つも注文して「あなたもお食べなさいよ」と私を共犯者にしようとする。久世さんはだんだん糖尿病がよろしくなくなっていたから、甘いものは控えなくてはいけないのだ。そう注意すると、「そうなんだよねぇ、わかっているんだけどさぁ……」と子供みたいにしょんぼりしてしまう。そんな久世さんを見るたび、どうせ一生こんなもの、お甘ぐらい存分に食べさせてあげたいと思ってしまうのだ。

痩せがまんのかっこつけ屋

 白い紙に、思いついたフレーズや言葉、俳優の名前などが脈略なく書かれていく。書くのは久世さんで、先の尖がった鉛筆で書かれるのは字よりグルグルの渦まきとか、グシャグシャの斜め線とか、そんなものの方がずっと多い。話しながら自然と鉛筆が動いてしまうのだろう。可能性にあふれた白い紙がほぼ黒く塗り潰されたころ、作られるドラマの輪郭もぼんやり見えてきて、打ち合わせはお開きとなる。

 とっぷりと陽も暮れたこのあとは、久世さんの大切な麻雀タイムになるのだろう。席を立とうとする久世さんに、私は言う。「久世さん。その紙ちょうだいね」。初めてそれを言ったとき、久世さんが驚いたような嬉しいような顔でクスッと笑った。「いやあ、同じことをいうんだなぁ。向田(邦子)さんもね、打ち合わせが終ると、この真っ黒な紙きれを欲しがるんだ。何の役に立つのかねぇ」

「源氏物語」の撮影スタジオで打ち合わせ中の久世さんと脚本を担当した向田邦子さん。
向田邦子新春スペシャル第1作「眠る盃」(昭和60年)の撮影現場での久世さんと森繁久彌、工藤夕貴。

 たぶん向田さんも、「私はちゃんと打ち合わせをしたんです。決してさぼってばかりいるわけじゃございません」という証明書が欲しかったのだ。これがあればまたしばらく仕事に近づかなくても、罪の意識は軽減される。モノ書きの考えることなんてたいてい似たようなものだ。

 それなのに久世さんは、無体なことを当たり前のように投げつけてくる、「ホン、いつ出来るの?今週中?」。えッ、今週ってあと四日しかないじゃない。「あのさ、テレビの二時間のホンなんて、三日もありゃ書けるでしょ?」冗談じゃない、一週間はかかります。「よし。じゃぁ、五日だ」。頭にきて五日で書きあげて会社に連絡すると、手下(てか)のスタッフが電話口に出てきて「久世さんはゴルフですよ。泊りがけだから、いつ連絡つくかなぁ」と楽しそうに言うではないか。こんな時、本当にクッソジジイと思ったものだ。

 久世さんのクソジジイぶりについてはみんなが知っていた、というより、受け入れていた。たとえばドラマのアイディア、とりわけキャストでよいアイディアが浮かんだので伝えると、ニ日後にはまるでそれを思いついたのは自分だとばかりに電話で「おい。いい役者を思いついたぞ、〇〇はどうだ」と威勢がいい。ちょっと、そのアイディアは私が……。でも、その言葉はぐっと飲み込んでしまう。だって久世さんは、本当に自分のアイディアだと思っているんだもの。それくらいドラマ作りが、役者が好きなのだ。のめり込んでしまうのだ。勿論、加齢による物忘れもあったかもしれないけど。向田さんも同じことで憤慨していたらしい。「いいとこは全部自分にしちゃうんだから」と言って。それなのに、それでも、みんなが久世さんのことを好きなのは何故なんだろう。

 久世さんの手下のスタッフたちと飲み食いをしていると、必ず久世さんの悪口・陰口で盛り上がった。でもそれがちっとも陰湿なんかじゃなくて、嬉しくてたまらないように「うちのボスはこれだからさぁ」みたいな感じ。そんな夜毎の飲み食い代は全部会社もち、久世さんの働きに依っているわけで、いくらバブルの名残があるころとはいえ甘やかしてるなぁと思いつつも、そんな久世さんが嫌いじゃなかった。

 たとえばTBSを辞めた先輩・後輩も高額の給料で引き受けていた。いつだったかポツリともらしたことがある。「俺はカッコつけたがりだからさ、お山の大将になりたいだけなんだ」。そんな久世さんを見て、この人は上品な義侠心の人だと感じた。他社の才能を妬んだり、私的財産を肥やそうとする輩はいっぱい見てきたけれど、久世さんみたいな痩せがまんのかっこつけ屋さんには滅多におめにかかれない。だから手下たちも尊敬と大好きをこめて、悪口・陰口をたのしめたにちがいない。但し、そんな久世さん故か、会社はやがて破産申請するハメになるのだが。

久世ドラマには
昭和が匂い立つ

 そんな久世さんと全然親しくはなれなかったけれど、六本のドラマを作れたことを幸福だったと感謝している。どうして上手でもない私なんかに六本も自由に書かせてくれたんだろう。それ以上に、生まれも育ちもまるでちがうふたりにどんな接点があったんだろう。

「ムー」よりさらにバラエティ化が加速した続編「ムー一族」はたびたび生放送が行われたほか、エジプトでの海外ロケも実施された。ハプニングの数々が少年少女たちに熱狂的に支持された。

 久世さんは職業軍人の父を持ち、昭和天皇の御影が飾られた少々おかたい家庭で育ち、私は奇妙な役者たちが出入りする家で育った。伯父の故・信欣三は久世ドラマに出たこともある。女優の伯母は神経を病んでいて、その親友が故・北林谷栄さんや故・細川ちか子さん。(故が多いので。以下省略)宇野重吉、滝沢修、殿山泰司さんなんかも出入りする奇妙な家だった。金木犀の匂いのする家で育った少年は東大美学へと進み、やがて変態人間好きな演出家になった。私もへんてこりんな人間大好きなモノ書きになった。ふたりがクロスしたものは何だったのかと、今になって考えると、たぶん「匂い」だったような気がする。

 ふたりとも病弱な少年少女だったから、よく微熱を発した。微熱をまとって布団に横たわっていると、細胞や感覚がひっそり研ぎ澄まされて、夢想を誘うくらい鋭敏になってくる。久世さんに訊いたことはないけれど、目と耳と口と鼻でどれが一番好きだったかしら。私は鼻。だって鼻がいちばん正直だもの。目は閉じれば暗躍になるし、耳もふさげば聞えない。口なんか有りもしない嘘だって言える。でも鼻は自ら閉じることも開けることもできないまま、じっと世界と対峙している。そんな鼻がいちばん好き。幼い久世さんも私も微熱に包まれて、どんな匂いを嗅いでいたのだろう。怖い夢。甘ずっぱい夢想。そんな自分が気怠くてイヤになっちゃうようなあたたかな「匂い」。

 久世ドラマにあって、他の人が演出したドラマにないものは「匂い」だ。それはとても素敵なことだ。あらゆる感覚の中で、嗅覚がいちばん記憶をよび起こすらしい。脳に近いからかな。久世ドラマの懐かしさは「昭和」を扱っているからだけではない。その中に匂いがあるから、匂い立つような人間がいたからだ。そんな人間がいられたのは、昭和という時代だったからなのかもしれない。

連帯を夢見て
個を生きる人

本木雅弘も沢田研二同様、久世さんに〝美しい青年〟と称された俳優で「お玉・幸造夫婦です」「涙たたえて微笑せよ」「夏目家の食卓」(テレビドラマの久世さんの遺作)に出演した。

 人々も風物も匂いやかだったあのころ。人々はみんな、それぞれがそれぞれでいられた。植木屋さんは植木屋さんらしく、勤め人は勤め人らしく、お母さんはお母さんらしくて老人は老いた人だった。見ためがその人の本質とつながっていた。安心して、ちゃんとそれぞれでいられた。いつのころからか、見ためではその人がわかりづらくなり、だんだん同じようになって、バーチャル化され記号化されて……。 
 久世さんはいいタイミングで逝ってしまったのかもしれない。久世さんのドラマは狭い畳部屋のセットに役者と卓袱台と遺影を置き、手下たちが楽しそうに陰口を叩いた「お便所の百ワット」みたいなテッカテカに明るい照明で作られた。それなのに久世ドラマにはちゃんと闇があった。テッカテカに照らされても、人が抱く闇の匂いがあった。

 全然親しくなれなかった久世さん。こんな私が時おり垣間見た久世さんはいつだって華やかな人たちに囲まれて、演出家としても作家としても忙しく、女優達には絶対的な人気があって、女に関しては「ワタクシは千人斬りなどしておりません。せいぜい〇百人」なんて大風呂敷を拡げてみたり、チェーンスモーカーみたいに缶入りの両切りピースをプカプカやりながら「なんで俺の肺は黒くならないんだろう。早く真っ黒になればいい」などとほざきながら、ジジイなのに茶パツに染めてみたり、相変わらずノーアイロンのシャツにコッパンで素足にズック、ちょっと猫背のまま痩せた肩をそびやかして歩いていた。

 そして久世さんはやっぱり、昭和の男だった。どこかで読んだフレーズだけど、今の人たちのように「個を夢見て、連帯を生きる」のではなく、「本物の連帯を夢見て、個を生きる」人だった。そう生きるしかないカッコつけたがりやで痩せがまんの、昭和の男だった。

 もういち度、あの茜色の夕陽が射す「ナポレオン」で久世さんと向き合って、可能性にあふれた真っ白な紙を真っ黒にして遊びたいなぁと、懐かしく、思うのであります。

つつい ともみ

脚本家、小説家。東京都出身。成城大学文芸学部文芸学科国文コース卒業。1996年、テレビドラマ「響子」(向田邦子新春ドラマ)と「小石川の家」(2作とも演出は久世光彦さん)で、向田邦子賞受賞。テレビドラマ「必殺仕事人」「家族ゲーム」「あ・うん」「センセイの鞄」など多数の脚本を手掛ける。著書に『月影の市』『女優』『舌の記憶』『食べる女Ⅰ・Ⅱ』『旅する女』など多数。

2012年7月1日 Vol.12より
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