文=箱根関所 所長 大和田公一
箱根彩彩 2018年7月1日号より
弥次・喜多も歩いた
箱根八里の石畳
「けふは名にあふ筥根八里、はやそろそろと、つま上りの石高道」
江戸時代後期に十返舎一九が著した『東海道中膝栗毛』の記述。
主人公の弥次さん・喜多さんが歩いた石畳の道は、今から三四〇年程前、江戸時代前期の延宝年間に敷設されたと伝えられ、現在湯本から箱根峠の間では七地点三・三㎞にわたって残っています。この道は杉の並木とともに、箱根越え東海道の歴史的景観を伝える国指定史跡として保存され、またハイキングコースとしても人気のある道です。
箱根町に関わって三十年余り、数えきれないくらいこの道を歩きまし た。ある時は、箱根の小学生たちと手作り草鞋で歴史体験。草鞋と石畳は相性抜群、滑らないのです。雨露で湿った「天ケ石坂」の急傾斜、山靴やスニーカーでおっかなびっくり歩いてくるハイカーたちと、「どや顔」ですれ違ったことなども楽しい思い出です。
またある時は、街道の調査で。石畳の残存状況や距離の測定、構造の把握など、石畳とお見合いしながらの匍匐前進。道は、石畳の持つ排水構造や石組など優れた特徴について十分に語りかけてくれました。
箱根の山は天下の嶮
石畳と対話しながら急坂を登りきると、やがて道は樹間からわずかに芦ノ湖を臨みつつ湖畔へと下がって行きます。「賽の河原」や「杉並木」、江戸風情に身を浸しながら、足取りも軽く歩を進めていくと、杉の陰からいきなり厳めしい黒塗り門が! 箱根関所に到着です。
♬一夫関にあたるや 万夫も開くなし
(一人の兵士が関所の守りに当たれば、万人の軍勢が押し寄せても関所を攻め落とすことはできない。)
明治三十四年に中学唱歌として発表された「箱根八里」の一節。険峻な地形を巧みに利用し、また周囲に張り巡らされた八百本を超える木柵など堅固な構造、渋墨の黒を基調とした威圧感たっぷりの建物たち。
関所は江戸時代初期の元和五年(一六一九)にこの場所に設置されたと伝えられ、二五〇年にわたり江戸防衛や治安維持のために、監視の目を光らせていました。
箱根関所の一番大事な役割は、「出女」の取り調べ。江戸から西方へ向かう女性は、幕府御留守居役の発行する旅行許可書の「証文」が必携。関所では証文に記載された女性の髪形から身体的特徴を詳細に照合し、一致していなければ関所を通すことはできませんでした。一方、世に言われる「入り鉄砲」の改めや、男性の通行については、さほど厳格な改めは行われていなかったようです。
現在の箱根関所は、江戸時代の史料分析や発掘調査の結果に基づき、建物の位置や規模、構造、材質や色までも完全に復元したものです。江戸時代、幕府によって設置された関所は全国五十三から五十五カ所あったと伝えられています。しかし今、その大半は僅かに石碑が建ち、往時の場所を伝えているに過ぎません。箱根関所は、江戸時代の姿を目の当たりにすることができる唯一の関所と言っていいでしょう。間もなく設置四百年を迎える箱根関所。石畳の道と共に、江戸時代の街道情緒を体感してみてはいかがでしょうか。
おおわだ こういち
1956年東京都出身。法政大学卒業後、 箱根町立郷土資料館に歴史系学芸員として勤務。同館館長、教育委員会生涯学習課長、教育次長を経て、2016年定年退職の後再任用職員として、同年4月から箱根関所所長。