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HANATSUBAKI
資生堂の化粧品は母が使っている高級なイメージがあって、「花椿」はその資生堂が出しているあこがれの存在でした。初めて表紙に出していただいたのは1968年だったと思います。15か16歳ですね。70年代に入って「anan」などが創刊され、日本でも女性誌のスタイルが変化を見せるようになりますが、「花椿」はその先駆者的存在だったのではないでしょうか。写真で強烈なインパクトを出したというのは日本の冊子では目新しいことでした。資生堂の専属になり、キャンペーンガールという言葉もまだない時代にサマーキャンペーンのお仕事や、テレビコマーシャルでモデルがしゃべるということがありえなかった時代に浴衣姿で「お中元には資生堂石鹸」なんてセリフをいう、当時の新しい試みに参加できました。今よりも、すべてにおいてもっと感覚が大胆だった時代ですね。モデル=正統派美人という図式が変化を見せる最初のシーンに新しいモデルのタイプとして参加でき、才能あるクリエイターの方々とめぐりあえるきっかけとなった「花椿」。「もの創り」という意識を与えてくれた存在です。
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かれこれ40年以上、アートディレクターとして関わってきましたが、最も多いときは月655万部を発行していました。雑誌に生命を吹き込むには、何か一つのスタイルをもっていなければいけない。1本筋の通ったものを創るのが私たちの仕事だと思っています。資生堂は企業と全国の販売店とのつながりが強く、当時「花椿」が心がけたのはハイブロウな視点で、都会のニュースを発信するということでした。ある意味高い目線からの「教えてあげよう」的な発言が必要だったのですね。それは決して読者を馬鹿にしているのではなく、読者に敬意を払っているからこその考えでした。時代が変わっても、おしゃれの美の本質、精神論としての高級ということの本質が変わることはありません。時代ということを考えながらも、視点は、今流行っているものに向かうことはありません。上手い文章、上手い絵やイラスト、写真をご紹介するのではなく、私たちの心に響くものを伝える。自分の思う、信じることを正直にやらせてくれた、それが「花椿」です。
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母が愛読していた「花椿」に出合ったのは中学生の頃です。塩野七生さんはじめ錚々たる方々が執筆されていることに驚きを感じたと同時に、ファッション、ビューティー、カルチャーが縦横無尽にグローバルな視点から編集されている内容に興奮を覚えました。今年の4月、その「花椿」の編集長に就任し、身の引き締まる思いを感じながらも、毎日刺激を楽しみながら仕事に取り組でいます。資生堂は今年90周年を迎えた「資生堂ギャラリー」や広告宣伝も含めて、企業文化というものを大切に考える企業です。「花椿」は、その資生堂の考え、志や美意識を社会に発信していく「企業文化誌」であると捉えています。資生堂は現在変革の真っ只中にあります。創刊72年の「花椿」はまさに成熟期にありますが、企業文化誌である以上、資生堂の変革に基づき新たな方向性を打ち出すべき時期であると考えています。ただ、時代を常に意識しながらも、決して時代を追いかけることはない、それが「花椿」が創刊から貫いてきたことですから、今後も「花椿」ならではの「美」と「知」を深めていくこと、それが変わらぬ役割だと考えます。
いしかわ みちお
文筆家、プランナー。1947年仙台市生まれ。東京大学法学部卒業。歴史関連や企業文化分野の企画執筆に数多く携わる。温泉評論家としてもメディアで活躍、著作・論考を重ねている。『温泉巡礼』『温泉法則』『温泉で、なぜ人は気持ちよくなるのか』『入門 おとなの温泉旅ドリル』『歴史の舞台を旅する』(シリーズ3巻、坂本龍馬ほか)『面白いほどよくわかる世界史』など著書(共著含む)多数。