1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
一つの映画で、俳優や監督が一気にメジャーへブレイクすることがある。
きっかけは『愛のむきだし』(2009)のシナリオを渡され、読んだことからスタートする。正直、園子温監督とは、映画の志向や嗜好? が異なると感じていて、『紀子の食卓』(2006)を観るまでは縁がないと思っていた。この映画は面白かった。それでも、一緒に映画を創ることはないだろう……と。そんな時、脚本を読み、渋谷の喫茶店で会うことになった。
いきなり「カンヌ映画祭で賞を獲りに行こうか」と。彼は、「イエス!」の返事。
これはエドワード・ヤン監督との初対面で僕が言ったことと近いのだが、「賞は、もらうのではなく、獲りに行くもの」とエドワードから言われたセリフだ。
シナリオは、カンヌ映画祭でコンペティションに行けるレベルかと思ったが、長い! 300ページを超える脚本は、普通の監督なら5時間分だ。しかもカンヌでは彼の実績は足りない。この点は、カンヌ常連のエドワード・ヤン監督とは違う。
園監督のそれまでの映画は、国内、海外(ベルリン映画祭)で評価はされていたものの、自主映画的なものも多く、一般への浸透度は低かった。
当時、在籍していたGAGAでは、もちろんNo Good。僕もメジャー中心の映画製作を行っていた。しかも、諸般の事情で突然、フジテレビに一旦、戻ることにもなってしまった。こんな危ない企画はテレビ局では100%成立しない。
このモラトリアム期間を生かして、ちょっとお金のかかった自主映画? でやることになった。いい意味では、プロデューサーと監督だけですべてを決められる。製作委員会ではないので、出資者からの意見もない。この形でしか映画『愛のむきだし』は成立出来なかったかもしれない。
脚本は彼の友人の、ほぼ実話体験から発想を得ているとのことで、その点は興味深かった。初対面ながら「キャスティングは基本的にプロデューサー側に託してほしい」と。なぜなら、それまでの彼の映画よりも大きくアピールしていくためでもある。すでに彼の中ではキャストは決めているようだったが、一旦、リセットした。
わざと目の前から、僕の知人のメジャー系俳優に電話したりして、有名かつ良い俳優の必要を示唆したりした。その役は、『スワロウテイル』(1996)でも一緒だった渡部篤郎さんにやってもらうことになった。
目標の「カンヌ」は共有したが、そこまでのプロセス、アプローチは基本、プロデューサー側のジャッジと責任である。
大きなハードルは長さだ。『ヤンヤン 夏の想い出』(2000/カンヌ映画祭監督賞)も2時間53分と長かったが、エドワード・ヤン監督はカンヌで実績があった。初挑戦の園監督はその点でハンデがある。
「尺は2時間半で行こう!」
「……わかりました……」
今、振り返ると5時間分の脚本を半分にするのは無茶なことだったかと。それでも、モチベーションというのか、「カンヌで賞を獲る」ことを自分の第一に置いてしまっていたのかもしれない。