遊びをせんとや生まれけむ 第7回 2011年4月1日号より
2011年5月16日逝去。享年77。学習院大卒、東宝映画から俳優としてスタートし、多くの映画・ドラマに出演。その知性的な風貌とともに、無類の読書家としても知られ著書も多数。雑誌¿Como le va?の創刊号から絶筆となる7号まで健筆をふるってくれた。昭和を生きた人として常に世を憂い警鐘を鳴らしていた。
経済優先の風潮により
置き去りにされた教育
お金に滅法弱くなった日本人。といきなり書いてしまったが、どうも世の中すべてが金次第といった風潮がいろんなところに見えて情けなく思えて仕方がない。いやなんとも面白くない。
たとえば一つの例だが、昔は(年寄りの典型的な言い方でわれながら苦笑しているが)、何かしてもらったお礼にと、なにがしかのお金を包んで出しても、いえ結構です。そんなつもりでしたのではありませんから、などといってなかなか受け取ろうとしなかったものだった。いや、ほんの気持ちだからとこちらが再度言っても、いや結構です、とかたくなまでに、拒否したりされたりしたものだ。
ところが最近は、まず拒否されたことがない。たいていあっさりと、そうですかと、拍子抜けするほど簡単に受け取ってしまう。あまりのあっさりさに、こちらが呆然としてしまうほどの素直さだ。もともとこちらは差し上げる目的で出しているのだから、素直に受け取ってもらって、もちろん、かまわないのだが、いえ、それは結構です、とか一度ぐらいあってもいいのじゃないかな、などど、何となく釈然としない。なにかそのあたりに人間同士の思いやりではないが、そんな温かさが通い合うような気がしてならないからだ。
この数十年、日本はすべて経済優先とばかりにひた走りに走り続けて来た。お金の有り無しが人間の優劣を分けると言わんばかりに。その結果、たしかに日本は戦前に較べてはるかに豊かな国になった。ところが、そうした何事も経済効率と金儲けが優先されたことで、役に立たないと置き去りにされてしまったのが、人間の心の教育だ。
心を養い想像力を培う
文学という人生の「無駄」
その典型が「文学は役に立たない」という言葉で代表される無駄省(はぶ)きだ。大学から文学部の看板がどんどん外されていったのもこの間の特出すべき出来事だった。その結果、何が起こったか、といえば、日本中、至る処で不測の事態が出来(しゅったい)してきたことだった。原因は、人間にとって一番大事な想像力の乏しさとモラルの著しい低下をまねいたことにある。
お金ほど現実的なものは無い。なければたちどころに困り、あれば人間の欲求をどこまでも叶えてくれる。つまりは最高に厳しいリアリティを持つ、命にかかわる凄まじい化け物であるのだ。言葉を替えれば、人間に修羅場を強いるこわい魔物なのだ。だからこそ、人間はお金から独立した豊かな心を持たばければならない。極端な言い方をすれば、いつしか日本は金の亡者ばかり棲む国へと変貌してしまったか、の感さえある。
かつて日本の社会の潤滑油となっていた、他人への思いやり、尊重、助け合い、ゆずり合い、人情といったものが、お金優先とばかりに消え、ついには近所での挨拶も交わされなくなった。人に身体をぶつけても知らん顔、足を踏んでも、失礼の言葉も無い。経済優先が生み出した殺伐さは、重い空気となって社会全体を覆っている。
お金が沢山無くたって、人間は幸せになれる。それは心の持ち方ひとつなのだ。そのために、人間の心を養い想像力を培う文学が必要なのだ。このことを無駄として棄てたとき、人間は生きる指針を失う。なぜならば、世の中のことすべては、それを行う人間の精神に関わっているからだ。
こだま きよし
俳優(1934~2011) 東京都生まれ。58年学習院大学文学部ドイツ文学科卒業。同年6月、東宝映画と俳優専属契約を結ぶ。67年にフリーとなる。映画『別れて生きるときも』『戦場に流れる歌』『HERO』など、テレドラマ「ありがとう」「花は花よめ」「肝っ玉かあさん」「白い巨塔」「黄金の日々」「沿線地図」「獅子の時代」「想い出づくり」「親と子の誤算」「山河燃ゆ」「武田信玄」「HERO」「美女か野獣か」「ファイト」「トップキャスター」「こんにちは、母さん」「鹿男あをによし」など多数の出演作がある。ドラマ以外でもテレビ「パネルクイズアタック25」「週刊ブックレビュー」、「びっくり法律旅行社」、ラジオ「テレフォン人生相談」など。著書に『寝ても覚めても本の虫』『負けるのは美しく』『児玉清の「あの作家に会いたい」一人と作品をめぐる25の対話』などがある。