箱根彩彩 2017年1月1日号より
文=天野圭一
箱根の仙石原に暮らして満2年にな ります。それまでは中国で化粧品会社を設立して3年半ほど赴任していまし た。辞令が下り帰国となったものの、 勤務地は箱根の山の上のポーラ美術館。 単身赴任の引越荷物は、東京の自宅ではなく、箱根へと送ることになりました。思いもかけない転勤でしたが、学生時代は映画や美術に耽溺した身ゆえ、 所を得たりと箱根の山にやって来たというわけです。
初めにご紹介するのはやはりポーラ 美術館です。仙石原から強羅に抜ける ヒメシャラ林道を1.5キロほど入ったところにあります。絵画・彫刻といった作品鑑賞はもちろんですが、美術館 全体の佇まいも楽しんでいただくことができます。白を基調としたガラスとコンクリートの建物が森の中に沈むように据えられ、「風の遊ぶ散歩道」と名づけられた枕木を並べただけの遊歩道があり、一年を通して豊かな自然を感じさせてくれます。
真冬の朝の蒼天に映える雪化粧した木々は息を呑む美しさです。ゴールデ ンウィークになると新緑の清々しさにため息が洩れ、純白の手まりのような山芍薬の花には誰もが魅了されます。 初夏の早朝はアカゲラのドラミングの音がどこからともなく響いてきて、水量の増えるこの季節は、沢水のせせらぎも高らかです。肌寒さを感じる秋の夕暮れになると、山の奥からフューン、 フューンと牡鹿の雌鹿を誘う声が聞こえてきます。晩秋には、木々がその年年の色づき方で混じり合い、やがて戯れ合って散り敷きます。自然の尊さを五感で楽しめるこの遊歩道は、ポーラ美術館の自慢の一つです。
仙石原の石膏泉が 一日の疲れを癒す
そして、箱根といえば何といっても温泉です。箱根二十湯とうたわれ、それぞれの地で特徴的なお湯が湧きますが、仙石原は翡翠のような乳白色の石膏泉です。
夏から秋、そして冬にかけて、温泉の魅力は次第しだいに増していきます。 盛夏は早朝にひと風呂浴びてから扇風機で身体を冷ますのが何とも爽快ですし、新涼の頃の夕暮れに、ヒグラシの輪唱を聞きながら入るのも風情があります。荒い雨粒がバラバラと降りかかる秋の宵、高窓から枯葉が舞い込む冬の深更、それぞれに身に染みるものが あります。
厳冬期になると湯温を少し高めに調整してくれるようです。窓を開けて外気で頭を冷やしながら、こっそりと持ち込んだ缶ビールを飲む愉快。黙然と目を閉じて湯のたゆたいに身を任せると、湯口から溢れ落ちる音だけが耳を打ちます。その瞬間、一 日は忘却のかなたに消え去っていくかのようです。
2015年の大涌谷の火山活動は、箱根の山が生きていることを改めて印象付けました。いつの日か再びこの山が荒ぶることもあるでしょうが、それ までは「どうぞご機嫌よろしゅう」、そう願わずにはおれません。
箱根駅伝が終わるとすっかり観光客 は少なくなり、枯枝が落ちる音まで聞こえるような静寂が訪れます。皆さまのお越しを心よりお待ちしております。
あまの けいいち
1961年兵庫県生まれ。83年早稲田大学第一文学部卒業後 ポーラ化粧品本舗(現ポーラ)に入社。宣伝部、販社出向、人 事部、海外事業部を経て、2015年よりポーラ美術館管理部長。