プロマイドで綴る わが心の昭和アイドル&スター
大スター、名俳優ということで語られることがない人たちかもしれないが、
青春の日々に密かに胸をこがし、心をときめかせた私だけのアイドルやスターたちがいる。
今でも当時の映画を観たり、歌声を聴くと、憧れの俳優や歌手たちの面影が浮かび、懐かしい青春の日々がよみがえる。
プロマイドの中で永遠に輝き続ける昭和の〝わが青春のアイドル〟たちよ、今ひとたび。
企画協力・写真提供:マルベル堂
GSバンドとして「真冬の帰り道」などのヒット曲を出したザ・ランチャーズのメンバーであり、加山雄三の従弟に当たる喜多嶋修との結婚を機に、1970年に芸能界から完全引退した内藤洋子。引退して半世紀以上が経つが、内藤洋子の清純な顔、そして魅力的な声、お嬢さんらしい話し方のイントネーションなどは、今もくっきりと記憶に刻み込まれている。女優デビューは、65年の黒澤明監督作品『赤ひげ』で、小石川養生所の若き医師・保本登(加山雄三)の元許婚の妹・天野まさえを演じた。内藤洋子は高校一年だった。だが、僕が内藤洋子を知ったのは、それ以前に、妹が毎月購読していた少女向けの月刊漫画雑誌「りぼん」の表紙などでモデルとして登場していた頃である。広いおでこが可愛らしい髪の長いすてきな少女だった。黒澤明監督も、「りぼん」で内藤洋子に目をつけ、オーディションを受けるように勧めたことは広く知られている。内藤洋子に女優の資質を見た、黒澤監督もすごいが、黒澤監督の眼鏡にかなった内藤洋子の魅力は、尋常ではなかったと言えるだろう。
そして、『赤ひげ』公開の翌年には、主演の新珠三千代のたっての希望で、大ヒットドラマ「氷点」の陽子役で出演し、清純な雰囲気と健気でどこか悲しげな表情は茶の間の涙を誘い、テレビ初出演ながら、この一作で内藤洋子は人気スターになった。「氷点」については、島田陽子の項で詳しく語ったが、抑揚の少ない内藤洋子のセリフ回しは、芝居っ気が感じられず、それがむしろ魅力的に感じられ、今でも耳に残っている。その後も、愛嬌のある笑顔も見せれば、悲しげな雰囲気もまとうことのできる、フレッシュな魅力の東宝青春スターとして、数々の映画で若者たちの心を捉えた。
養護施設で育ち酒飲みの父親を抱えながらも健気に愛に生きる少女を演じた恩地日出夫監督『あこがれ』では、NHK映画賞、ゴールデン・アロー賞の最優秀新人賞を受賞している。多感で潔癖な高校生役の『育ちざかり』、大人の恋に憧れる高校生役の『年ごろ』、加山雄三の妹役で、東宝青春スターとしての人気を二分していた酒井和歌子とも共演した『兄貴の恋人』といった青春映画。内藤洋子の役名は、なぜか<陽子>や<洋子>が多かった。さらには、5代目のヒロイン薫を演じた『伊豆の踊子』、岸惠子と共演した『華麗なる闘い』、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、仲代達矢と共演した『地獄変』などでは、女優としての新境著しいところも見せている。
個人的には、67年に舟木一夫と共演した松山善三監督作品『その人は昔』が印象深い。北海道の貧しい漁村の生活に耐えかね、東京に希望を求めて青年(舟木)と共に駆け落ち、上京するが、そのうち都会に翻弄され、心を疲弊させていき、やがては死を選ぶ少女を演じた。この作品は、セリフや状況が音楽で綴られ、どこかフランス映画『シェルブールの雨傘』を思わせる実験的な映画として今でも語られる。内藤洋子は、挿入歌「白馬のルンナ」を歌い、ヒットさせている。その後、舟木とは『君に幸福を センチメンタル・ボーイ』でも共演を重ね、「平凡」「明星」といった芸能雑誌では、ゴールデン・コンビとして、二人の特集記事が組まれていた。また、テレビドラマでは石坂浩二と共演した石坂洋次郎原作のドラマ「あじさいの歌」が記憶に残る。
1960年代から70年代にかけて、「ナショナル プライスクイズ」という、いわゆる値段当てクイズの先駆けといえる番組があった。ズバリ一発で当てると〝ズバリ賞〟として、ナショナルの電化製品一式が商品として提供されていた。視聴者参加型のクイズ番組だったが、正月などは芸能人たちが出演していた。70年の正月には、映画各社の12人の女優が華やかな着物姿で出演し、4組に分かれてクイズに挑戦していた。一列に並んだ女優たちの姿は圧巻だった。その中の一人に東宝の内藤洋子がいた。ちなみに、その他の女優たちは、京マチ子、吉永小百合、岩下志麻、佐久間良子、司葉子、酒井和歌子、大空眞弓、岡田茉莉子、倍賞千恵子、若尾文子、新珠三千代という顔ぶれ。新珠や司のベテラン女優に加えて、東宝からは酒井和歌子と内藤洋子が出演していたわけだが、内藤は、酒井と共に東宝が力を入れていた女優だったことがわかる。
この年の1~2月、5月~7月には、内藤洋子は芸術座『雪国』で初舞台を踏み、同じく初舞台の若尾文子、中村吉右衛門と共演した。いよいよ、女優としての大きな飛躍が見られるのではと期待されたその年、内藤洋子は、あっさりと引退してしまったわけである。
今では、内藤洋子の時代の「平凡」「明星」や「近代映画」といった雑誌を開いては、ため息をつくしかない。そして、6年間という短い芸能生活だったからこそ、あのチャーミングな姿が今でも鮮やかによみがえってくるのだと、あきらめるしかない。
文:渋村 徹(フリーエディター)
※プロマイドの老舗・マルベル堂では、原紙をブロマイド、写真にした製品を「プロマイド」と呼称しています。ここではマルベル堂に準じてプロマイドと呼ぶことにします。
マルベル堂
大正10年(1921)、浅草・新仲見世通りにプロマイド店として開業したマルベル堂。2021年には創業100年を迎えた。ちなみにマルベル堂のプロマイド第一号は、松竹蒲田のスター女優だった栗島すみ子。昭和のプロマイド全盛期には、マルベル堂のプロマイド売上ランキングが、スターの人気度を知る一つの目安になっていた。撮影したスターは、俳優、歌手、噺家、スポーツ選手まで2,500名以上。現在保有しているプロマイドの版数は85,000版を超えるという。ファンの目線を何よりも大切にし、スターに正面から照明を当て、カメラ目線で撮られた、いわゆる〝マルベルポーズ〟がプロマイドの定番になっている。現在も変わらず新仲見世通りでプロマイドの販売が続けられている。
マルベル堂 スタジオ
家族写真や成人式の写真に遺影撮影など、マルベル堂では一般の方々の専用スタジオでのプロマイド撮影も受けている。特に人気なのが<マルベル80’S>で、70~80年代風のアイドル衣装や懐かしのファッションで、胸キュンもののアイドルポーズでの撮影が体験できるというもの。プロマイドの王道をマルベル堂が演出してくれる。
〔住〕台東区雷門1-14-6黒澤ビル3F
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