2010年11月25日号「街へ出よう」より
落語家十代目金原亭馬生が「そば清」という落語の枕で用いた
「一度でいいから、つゆをたっぷり漬けてそばを食いたかった」
といって事切れる江戸っ子の話は、江戸っ子の気質を雄弁に語る。
「粋」を重んじる江戸っ子は、野暮を嫌う。
本音を隠してでも、粋がることを尊ぶ。
だから、そばつゆをたっぷりと漬ける田舎風の食べ方は流儀に反する。
これが江戸前ってな具合に、そば先をちょこっとつけ、すする。
そこにはちょっとした見栄も意地もあるが、
実際江戸前のそばつゆは辛めで、たっぷり漬けるには適さないのも事実。
まずはお銚子を一本に焼き海苔とかまぼこ、締めにせいろを一枚手繰る。
江戸っ子の気分になったところで
まだお天道様は高いがそば屋で一杯といきますか。
昼間からはばかることなく酒が飲める、それが都市のそば屋ですからね。
そば前の愉しみ
~そば屋酒という都市の洗練~
文=太田和彦
ほんの先だけをつゆにつけすすっとすする江戸のそば
中高年に蕎麦=そばが人気という。
食べるのみならず、道具一式を買い込んで自ら打つ人も多い。しかし男ばかりで、女にあまりそば好きのいないのは、単純素朴ゆえに奥深い世界が男の求道性に合うのだろう。女はもっと享楽的だ。
そばの産地信州に育った私にはそばは日常のもので、田舎では嫁が客を手打ちでもてなした。そばだけの専門店ができたのは最近のこと、「生蕎麦」の暖簾をさげていても必ず丼ものもカレーもある食堂だ。そばは趣味の食べ物ではなく食事で、せいろ二枚を基本量とし、薄めのつゆにじゃぶじゃぶ漬けて汁ごとたっぷり食べる。薬味は大根おろし。山葵(わさび)は(信州は特産だが)使わない。寒い信州では「もり」よりも、熱いのをふうふう吹いて食べる「かけ」が好まれた。米が貴重な時代に、痩せ地で育つそばは救荒食(きゅうこうしょく)の記憶があるのかも知れない。
東京に出てきて浅草の「並木藪蕎麦」でショックを受けた。返しざるに盛った量はたいへん少なく、香りは官能的で、きりりと濃いつゆをくぐらすとそばの甘味が引き立って喉をするするとすべり落ちる。もぐもぐと噛んだりせず三分で食べ終わる。落語で、そばは箸でつまんだほんの先だけつゆをつけ、すすっとすするのが粋とするのは本当だとわかった。量が少ないのは食事ではないからだ。空いた小腹をちょっと満たすスナック。江戸のそば文化は信州のそばとは別の世界だった。
「並木藪蕎麦」「池之端藪蕎麦」(*池之端藪蕎麦は2016年閉店)とならぶ藪御三家の「かんだやぶそば」は、戦災を免れた神田淡路町の一角に武家屋敷のような塀を巡らせ、開店時間になるとしずしずと木戸が開く。格式があって粋な雰囲気は田舎のそば屋とはちがう。植え込みの石畳を踏んで玄関に入ると、大勢の花番さんの「いらっしゃいーー」と語尾を長く伸ばした迎えが名物だ。創業明治13年。昭和11年に作られた映画『朧夜の女』にかんだやぶが登場し、この声が聞こえる。監督の五所平之助は神田の生まれ育ちで、幼い頃から聞いていたのだろう。
空いてる店に一人でぽつりと居ることを愉しむそば屋の酒
広々と天井高い店の奥の大きなコの字の畳席に上がり、窓際にあぐらをかいた。雪見障子窓から眺める玄関庭は植え込みの笹竹がそばの清冽に似合う。こうなれば、いきなりそばではなく一杯酌みたい、そば前の酒だ。
黒塗り二月堂机に袴の白徳利、盃、箸、そば味噌がならぶ。料理屋ではないから盆も箸置きもない。そば屋の酒はあくまで脇の注文であるのが分だ。さて一杯。
ふう。窓を開けた風通しのよさに気持ちが清々する。そば屋酒を愉しむのは午後の二時過ざあたりだ。そば屋は基本的に午後は通しで開いている。昼の混む時間が過ざて一段落したころ入り、ガランとした店の隅で「忙しくないからいいよね」と酒を一本とる。気がつくと向うにも同じような客が一人。このシンとした午後の静けさがいい。したがって昼や夜の混む時間に酒を飲むのは野暮、というかマナー違反。また、そば屋酒の客が混みあって相席になるなどは願い下げ。まして連れ立って行くものではない。あくまで空いている店にぽつりと一人で居ることを愉しむのがそば屋の酒だ。これが小さな店だとちびりちびりと長居するのも気が引け、庭がないとテレビでも見るしかない。
広く大きく、庭のある「かんだやぶ」はすべてが理想的だ。ここでそば前の酒を飲むと江戸の人間が、本来田舎の救荒食であるそばを都市文化に洗練させたわけがよくわかる。若い者はそばなんかさっと手繰り、チャラリと代を投げ出して、スッと帰る。そば屋酒は隠居の文化だ。世間から身を引き、皆様のお邪魔にならない時間にそっと自分の愉しみをする。そういう場所を用意するのが都市の洗練なのだろう。
「せいろうそば、でございます」
そば前に何本も徳利を重ねるのは野暮だ。とどいた「せいろう」は黄瀬戸のそば猪口とつゆ徳利。ちなみにここでは「汁」と言う。「つゆ」か「汁」か、好みの別れるところだ。
つるつるつる。
酒二本と天たねで30分、そばは3分。
「勘定」
「ありがとう存じます」。