1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
真田広之さんとはあまりに長い付き合いで、初対面を思い出せない。
彼がまだ日大芸術学部の学生で「卒論を書いている……」という会話だけは覚えている。2歳違いなので、僕はフジテレビ入社2年目あたりか……。当時は<サニー千葉エンタープライズ>が事務所で、いわゆる<JAC>にも所属していて、アクションスターのイメージが強かった。千葉真一さんは仕事上の育て親の感じだった。
あれから40数年。テレビ局の社員でもあったので、本来は個人的に深く付き合うのはどうかとも思っていたが、志向が近く、週に1回くらい会うようになっていった。
テレビ局と芸能事務所の付き合いは深すぎると〝癒着〟関係になり、浅いと、ここぞのキャスティングの時に不利になったりする。芸能事務所主催のゴルフ大会や、夜のお誘いなど、顔を出すのが常識だった時代で、NHKの職員などは民放のプロデューサーと違い、スキャンダルネタにされていたこともある。僕は酒も強くなく、30歳手前からは、がん患者でもあったのでほとんどパスさせてもらった。
真田さんは<JAC>の中で黒崎輝さんや志穂美悦子さんととも看板スターであり、毎春休みには新宿コマ劇場で『ゆかいな海賊大冒険』という舞台のショーに出ていた。また、冬にはJAC主催のファンクラブ的なイベントで、スキーのインストラクターもやっているとのことだった。
『子猫物語』(1985)の宣伝を色々やっている時に、ホイチョイプロダクションのチームに出会い、彼らの自伝のようなスキー映画を創りたい! と持ち掛けられた。僕はスキーフリークではなく、たまに家族と苗場にスキーに行く程度だったが、局内で僕だけが映画部に所属していたことで、「やるかやらないか」の判断を求められることになる。
思いついたのはスキーのインストラクター的なこともやっている真田広之だった。
その頃は2人だけで会う機会も多くなり、彼の内諾をもらってスキーフリークたちの青春ラブストーリーをやると決めた。ところが1986年末~1987年の初頭はほとんど雪が降らず、結局奥志賀でクランクイン出来たのは4月に入ってからになる。
2月後半頃。映画撮影をやるのかやらないのかを決めることになり、キャストもリセット状態になる。振り返ると、今冬で撮影をやらなければ順延ではなく、映画製作は中止だったであろう。真田さんは春休みコンサートなどが入っていた。予定では1~2月撮影で本来はスキーシーズン中のはずだった。残念ながら真田さんは出演できなかった。それでも三上博史さんを抜擢出来たことは、『私をスキーに連れてって』(1987)にとっては大幸運だったと言えるだろう。