真田さんに対して「この借りはどこかで……」ということではなかったが、それから常に「真田広之」出演の映画の企画は考えるようになった。
『木村家の人びと』(1988)で、滝田洋二郎監督と一緒に仕事をしたことで、真田広之×滝田洋二郎の組み合わせを考えるようになった。僕は滝田監督のコメディ映画のセンスが大好きで『木村家の人びと』も僕が始めた<シネスイッチ銀座>の最初の邦画としてヒットし、モントリオール映画祭に呼ばれる等、評価もされた。
ところが、『木村家の人びと』の公開とほぼ同時に、骨の癌で東京女子医大に長期入院することになる。29歳だった。30歳の誕生日は抗がん剤を打ちながらベッドの上で迎えた。
森田芳光監督や滝田洋二郎監督ら多くの方がお見舞いに来てくれ、特にこの2人とのコミュニケーションから『病院へ行こう』(1990)が生まれたと言って良いと思う。コメディ映画のようなシチュエーションだった。この2人とはコメディ映画しか一緒にやった経験がなかった。
そして、ベッド上で満を持して、主演は真田広之(ストーリー上は自分だが)、担当してくれた女医は薬師丸ひろ子さん似で、周りの患者たちとの悪戦苦闘? の日々をノートに書き続けた。ノート上は「723(なにさ)の部屋」となっているので723号室に入院していたのであろう。女医が「なにさ!」と呟くシーンがあった。
人生は巡り合わせである。真田さんとはスキー映画では縁がなかったが、ここで彼は滝田洋二郎監督とも出会い、その後、立て続けに一緒に映画を創るのである。
僕にとっても、まさかの自伝? で真田さんに主人公を演じてもらうとは予想もしなかった。
『病院へ行こう』の撮影中だったか、真田さんから事務所を辞めた! と報告があり、そこから数年間は、まさに影のマネージャーではないがマンツーマンで行動することが多くなった。フジテレビの社員ではあったが、彼と会うときは1対1なので個人的な話まで入り込んだ。