それから数年間は、結果として、僕の関わる映画を中心に出演することになり、目標は「海外で通用する俳優になる!」。たとえばダスティン・ホフマンのように……。
立て続けに『病は気から 病院へ行こう2』(1992)、『僕らはみんな生きている』(1993)、『眠らない街~新宿鮫~』(1993)に出演、すべて滝田洋二郎監督で、国内での映画主演賞はたくさん獲得できた。テレビでも「太平記」(1991/NHK大河ドラマ)や「高校教師」(1993/TBS)にも出演した。週に何回かは会って議論もしながらだった。
国内の賞や認知度、評価は達成できたとして、海外への進出へ。僕はカンヌ映画祭で賞を獲る以前に行ったことがなかった。師匠筋のヘラルド・エース代表の原正人さんが『写楽』(篠田正浩監督/1995)でカンヌ映画祭コンペティションを狙うとのことで、「真田広之」の提案をしてみた。結果はコンペにも選ばれ、主演としてレッドカーペットを歩けた。5年以上、色んな議論をしながら、ようやく海外への第一歩となるはずだった。これで自分のサポートの役割も終了かと。だが、好事魔多しというのか、アクシデントは表裏一体のごとく起きたりする。
プライベートでも離婚があり、アゲインストな風が吹いていた。
久しぶりに会い、その時、僕が初めてホラー映画にチャレンジしていたこともあり、『リング』(1998)に出演しないかと持ち掛けた。メジャー展開する映画への出演であることが重要だと思った。本来なら彼はホラー映画向きではないし、主演は松嶋菜々子さんだった。結果的には、『リング』は、アジア中でヒットし、アメリカでリメイクもされ、振り返れば、出演してもらって良かったと思う。
それからは海外をメインに、何といってもイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー公演『リア王』(1999)に史上初めて日本人キャストとして出演したことは大きい。一緒にいた頃は、さほど英語力は感じていなかったし、舞台、しかもイギリス英語である。初めて話を聞いたときは「大丈夫かな……」とも思ったが、見事に役を演じきった。他人には見えないところで恐ろしいほどの努力をしていたはずである。そして、2002年には英国大使館で大英帝国勲章まで授与された。僕は舞台に何ら関わっていないが、叙勲式に参加して、誇らしく思った。