その後の活躍はご存じの通りだが『ラストサムライ』(2003)に出演したことは大きなターニングポイントになっただろう。トム・クルーズやスティーブン・スピルバーグ監督はじめ、多くのハリウッド人脈を築き、「SHOGUN 将軍」(2024/Disney)に至るのである。『ラストサムライ』から20年。時々会っていたが、ただでさえハリウッド映画の中では日本人俳優はハンデを負っていた。それでも不屈の努力で、世界中の映画に出演し続けたことが今回のエミー賞18冠に繋がったと言える。
『ラストサムライ』でメインの役から一歩引き、敢えて日本の時代劇のあり方、作法や殺陣などを助言するサポート側のスタッフも兼任したことの集大成が「SHOGUN 将軍」に活かされ、表現され、世界に認められたということであろう。
「SHOGUN 将軍」と言えば、浅野忠信さんの存在感も強かった。先日、アメリカの伝統ある「ハリウッドレポーター」誌が選ぶ、「ザ・ハリウッド・レポーター(THR)トレイルブレイザー賞」に彼が選ばれた。直訳すれば「開拓者」の意だが「革新を切り拓き新たな道を創る先駆者」に贈られる賞とのことで彼にぴったりだ。
先日、東京国際映画祭関連でこの授賞式がザ・ペニンシュラ東京で行われ、招待をしてもらったので行ってきた。
実は真田さんと一緒にやった『新宿鮫』に浅野さんも出演してもらったので、そこからの付き合いだ。浅野さんから「僕が19歳の時だったので、もう30年以上前ですね……」と言われ、僕が歳をとったことも痛感した。当時は父親がマネージャーであり、事務所の社長であり、何度も3人で会った。『ACRI』(1996/石井竜也監督)に主演してもらったり、『PiCNiC』等にも。『スワロウテイル』にはカメオ出演も。
2000年のカンヌ国際映画祭ではレッドカーペット上で再会した。彼は『御法度』(大島渚監督)、僕は『ヤンヤン夏の想い出』(エドワード・ヤン監督)で、逞しくなった彼を見て嬉しくなった。『ACRI』は、全編オーストラリアロケで、ほとんどが現地スタッフ。言葉の問題もあり、大いに苦労もしたはずだが、その後は海外との監督・スタッフとも積極的にコラボしていた。カーペット上でエドワード・ヤン監督を紹介すると流暢な英語で会話していた。まさに開拓者になっていた。
『新宿鮫』でこの2人が出会って30年以上。「SHOGUN 将軍」は巡り合わせのように、この2人の活躍を世界に轟かせた。
今度はアカデミー賞俳優賞を是非、2人には獲得してほしいと願っている。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。