1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
12月6日に中山美穂さんが急逝してしまった。哀悼の意を捧げたい。
『Love Letter』(1995)でブルーリボン賞を獲った時の取材インタビューで「この映画に出逢うために私の10年間の長い旅がありました……」と答える映像が今回、各局で放送されていた。
以前、『木村家の人びと』(1988)で桃井かおりさんに出演を依頼した際も「ブルーリボン主演女優賞が欲しいな!」と言われた。その通りになり本人に受賞を伝えた時、とても喜んでくれた。
アイドルとして10年間を過ごしてきた中山美穂さんにとっても「ブルーリボン主演女優賞」は嬉しかったに違いない。「映画女優」として初めてもらった主演賞であり、自分が心底賭けて出演した映画だったということもあるはずだ。出演前は「最後の映画になってもいい」と言っていたが、立て続けに『東京日和』(1997)等にも主演し、映画賞も受賞した。女優として自信も出来たと思う。
「ブルーリボン賞(映画賞)」は歴史も古く1950年に設立されている。当初は一般新聞も参加していたが、僕が映画を創りだした時は、東京のスポーツ7紙(報知・デイリー・サンスポ・スポニチ・東中・東スポ・日刊スポーツ)の映画担当記者で構成される「東京映画記者会」が主催していた。
スポーツ紙が、文化・芸能の情報を発信し、僕も映画記者との交流を持つことも多く、スクープ記事として、大きく紙面で取り上げてもらったことは何十回とある。スポーツ紙が芸能ジャーナリズムの中心だったことは日本特有であったが、試写室に行くと記者たちが真剣に映画を観ている状況に度々出くわした。映画評論家を兼ねているところもあったと思う。ブルーリボン賞は賞状を青いリボンで結んであり、賞金はなく、名入りの万年筆をもらえたような気がする。
一方で、認知度が一番高いのは「日本アカデミー賞」だ。履歴書に載せるにはこの賞が最も効果があるかもしれない。何といってもプライムタイムで放送があり、1000万人前後の人が視聴する映画賞はこれだけだ。
私も過去に10回程度参加しているが、電通が仕切りながら、日本テレビ独占放送、実際は大手配給会社中心に運営されてきた。第4回の1981年3月、『影武者』(1980)は、実際は受賞者が多数いたものの、黒澤明監督はじめ俳優、スタッフらがボイコットしてしまった年だった。ちょうど、僕がフジテレビに入社の年で、衝撃だった記憶がある。「テレビ界」と「映画界」の違いを感じさせられた。
それから10数年後の1997年。僕が製作していた『スワロウテイル』(1996)にも似たようなことが起きた。日本アカデミー賞は会員の投票(僕も会員の1人/現在は4000人程度か)により、まず部門ごとに5作品がノミネートされる。ここはアメリカのアカデミー賞や、他の映画賞と異なり、この時点で既に「受賞者」となり、たとえば「優秀主演男優賞」となる。最終の授賞式で、この5人が壇上に上がり、1人の最優秀主演男優賞が決まる。このシステムは日本アカデミー賞だけである。