話題を変えて、東映とテレビとの関わりについても触れておこう。東映はテレビ産業の動きに敏感で、他の映画会社に先駆けて積極的にテレビ提携策を実施した。58年10月には東映テレビ・プロダクションを設立し、東映の東西両撮影所の機材を使用してテレビ制作に当たった。京都撮影所では30分番組の時代劇「風小僧」シリーズを、東京撮影所では30分の現代劇「捜査本部」シリーズの制作を開始した。京都では時代劇や、京都が舞台の現代劇、東京では刑事ドラマや、特撮キャラクターものなどの子供向けの作品を、それぞれしのぎを削りながら量産していた。劇場映画においても早くから時代劇をはじめ、『警視庁物語』シリーズや、『少年探偵団』シリーズなど、後にテレビで主流となるような娯楽作品の撮影で多くのノウハウを積んでいたことも大きな強みで、東映のテレビ展開の速度は群を抜いていた。「風小僧」がNET系(現・テレビ朝日)での放送が開始されたのは、59年2月3日で、61年にはNETとテレビ映画制作の業務提携を結んだ。69年には、35シリーズ、826本が制作されている。
東映初代社長の大川博は、新規事業に対して非常に敏感に反応し、常にアメリカを見て、アメリカの動向をいつも意識していたような人物であった。そのアメリカでは、ABC、NBC、CBSの3大テレビ・ネットワークを中心にテレビ産業が隆盛を誇っていて、これからは、テレビの時代だという認識を大川社長も持っていたようだ。ボウリング場経営に着手したのも、アメリカに視察に行った折に、ボウリング場が非常ににぎわっていたのを目の当たりにし、東映はいち早くボウリング場経営にも着手した。
昭和46年に東映ビデオができた時、私はまだ大学生だったが、ビデオは未来の5千億産業と言われていた。大川社長はすぐにビデオ会社を創った。新しい事業へのアプローチに対して、人並みはずれた決断力と行動力があった。
東映がテレビ産業に着手、拡大したもう一つの理由には、人件費の圧迫があった。当時は1週間サイクルで、1週間に2本の新作映画を映画館にかけていた。1年52週ということで、年間約百本の映画を製作することになる。京都撮影所、東京撮影所がそれぞれ同じシステムで映画を製作する。それが第二東映の設立につながる。劇場映画のさらなる市場シェア拡大を目論んで、59年に第二東映を設立したわけだが、時はすでに映画産業に陰りが見え始めており二百本も映画を作る必要がなくなってきていた。結局、61年の12月には第二東映での製作・配給網を中止した。そうすると、人員も半減せざるを得なくなる。
そこで、週替わり、つまり1週間に1話のテレビ映画作りにそれまで以上に力を入れることになった。当時、京都、東京合わせて撮影所には契約も含めて約5千人の社員がいた。第二東映をなくすことによって生じる余剰人員を、食べさせていかなければいけないという事情があった。東映はリストラが嫌いな会社だった。テレビ映画への需要が伸びていることで業務を拡大し、一時は東京撮影所だけで制作していたのを再び京都でもテレビ制作を行うことで、人件費圧迫を解消したというわけである。
東京、京都の両テレビ・プロは、NET系専門の制作会社で、作品はNETや大阪のMBSをキーステーションとして放送された。現在でも「相棒」や「仮面ライダー」シリーズなどを制作している。NET専属プロダクションのような感じだった。NET系列以外で放送される作品の制作のために作ったのが東京制作所である。その後、TBS系の「水戸黄門」を作るために太秦映像というのができた。日本テレビ系の「あぶない刑事」は、セントラルアーツとして制作していた。大川橋蔵の「銭形平次」は京都撮影所の制作。撮影所直の制作と、テレビ・プロと、制作所、セントラルアーツ、太秦映像と、分担して作っていた。たとえば、同じ曜日の同じ時間帯に2つ以上のテレビ局で東映の作品が並ぶのは仁義を欠くことになるということで、制作会社を別にするという図式があった。結局、テレビ映画の50パーセントくらいは東映が作っていたと思う。「狼少年ケン」「魔法使いサリー」といったアニメ作品は、東映がすべてコントロールする中で、子会社である東映動画が作っていた。